美濃白鳥大島安養寺の歴史

板津 昌且

開祖は佐々木高綱の三男高重で法名を西信と言います。嘉禄年中(一二二五〜二六)に親鸞の 弟子となり、康元元年(一二五六)近江国(滋賀県)蒲生郡に堂宇を建て、遠郷山安要寺と号し たのが開基であると言われています。六世佐々木仲淳は重幸と号しましたが、職を弟に譲り、寛 正年中(一四六〇〜六五)、美濃国安八郡大榑庄(現輪之内町)に堂宇を建て、吉崎に進出した 本願寺八世蓮如に従い、改めて安養寺の号を賜りました。その後蓮如の命を受けて、教化のため 伊勢・伊賀・尾張・越前・美濃の門末を巡り、一時伊勢国(三重県)安濃郡に住みましたが、の ち越前国大野郡上穴馬村箱ヶ瀬(現福井県大野郡和泉村)へ寺を移しました。

東常縁の招きで延徳年間(一四八九〜九一)、牛道郷中西に道場を建て、その時の改元にちな んで延徳寺(のちの安養寺)と名乗りました。東元胤は大島野里の地を割いて寺地となし、天文 五年(一五三六)そこに寺を建て穴馬から移転させました(現在の宝林寺の南隣)。

郡上の地は朝倉氏より二度も侵略を受けていますが、二回目の侵略時には安養寺の活躍が光りました。
 第一回の侵略時に朝倉勢は長滝寺に陣を張り、向小駄良に砦(城山の砦)を構え、東氏の篠脇 城を襲う態勢を取りました。この時は長良川の石を城内から朝倉勢めがけて落下させて狼狽させています。
 城兵は「これは妙見菩薩の加護であろう。好機を逃すな」と、村山三右衛門は大身の槍をとっ て朝倉の乱軍の中に突きこみ、埴生太郎左衛門は大刀を振りかざして敵を伐り倒し、土屋修理・ 遠藤大蔵・鷲見藤三郎・武光平太夫・加賀見主水・武光伝右衛門・松井半右衛門・餌取半左衛門 ・三島内善・伊藤宗喜などの諸士を始め、城兵は大いに奮戦し、朝倉の勇士猪熊舎人・桑原慶安 らを討ち取ったのを手始めに、敵に大きな損害を与えました。

第二回の侵略時には安養寺は東氏の依頼を受けて、時の住職七世了淳は信徒に呼びかけたとこ ろ、たちまち千余人が集まり、東家よりまわした千余人分の武具長刀、猪突槍などをそれぞれに 携え、安養寺了淳の指図に従って出陣しました。
 朝倉勢は長滝寺に陣を構え、篠脇城に攻めかかる思いにて、穴馬の難所を過ぎて油坂へと向か い大いに疲れたところ、油坂に安養寺勢の待ち伏せているのを見て大いに驚きましたが、「高の 知れたる坊主の働き、しかれども油断なすべからず」と大将義広は用意を命じました。安養寺勢 もすでに用意のあることとて、朝倉勢を見かけ篠脇勢への合図の狼煙をあげれば、篠脇城勢は向 小駄良に砦を構え後陣に控えていましたが、これまた合図の狼煙をあげ一散に駆け出しました。
 朝倉勢は飛道具を打ち出したが種々の障害があって思うようにならず、切り立てるより他なし と思ったのでしょう。直ちに太刀打ちとなりました。安養寺勢の円城坊は身の丈六尺もある強力 であったから真先に立ち、鉄棒をもって打ちかかりました。朝倉の勇士朝倉左門同じく鉄棒を振 って円城坊に打ちかかり、互いにしばらく戦ったが円城坊は左門の棒を打ち落としました。左門 は大刀を抜いて切りかかれば、篠脇勢の餌取六郎左衛門は槍をもって突きかかり、横合いから遠 藤新左衛門も槍をもって突きかかって来ました。左門は事ともせず、大長刀にて槍の柄を打ち落 とし、大勢を相手に戦いました。円城坊もついに鉄棒を捨て、大長刀にて左門の片腕を切り、ひ るむ所を討ち取りました。円城坊は鬼神の如く朝倉勢の中へ長刀にて切って入れば、朝倉勢も激 しく応戦しました。円城坊が大勢を相手に薙ぎ立て追いつめますと、朝倉勢は持て余し、ひるむ ところを篠脇勢がひしひしと押し寄せました。
 朝倉勢が円城坊の勇気に恐れ、叶わずと退くところを、了淳手扇を握り「円城坊は比類無き働 きなり、長追無用なり、早々引き返すべし」と指図しましたので、皆々陣に退きました。

永禄十二年(一五六九)飛騨國の三木自綱が坂本峠を越えて氣良の佐藤氏、畑佐(現明方村) の畑佐氏とともに八幡の遠藤氏を攻撃するため畑佐六右衛門の砦(畑佐城)に入ったとき、遠藤 慶隆(八幡城主)・遠藤胤俊(木越城主)の依頼で安養寺十世乗了は信徒若干を率いて助勢しま した。末寺の円覚坊・妙専坊・正専坊は奮戦し戦死したといいます。

元亀三年(一五七二)五月二〇日、武田信玄が安養寺に書状を送って、安養寺が織田信長の被 官となっている遠藤氏を、信長から切り離して安養寺とともに石山本願寺に味方させようとして いました(安養寺文書)。
 これは武田氏の上洛をたすけて天下平定を目指す本願寺の意向をうけたものです。同年九月二 六日には織田方の遠藤慶隆も武田氏へ書を送っていますが、安養寺の働きかけがあったとみられます。

武田信玄書状
珍札披読快然ニ候、貴寺、両遠藤、別而入魂之由侯之間、去 比、染一翰候キ、自今以後者、彌有相談、共表之備、可然様 ニ、調略極此一事候、信玄も偏大坂へ申合侯之上者、無他事 可申談候、委曲従土屋右衛門尉所可申候、恐々謹言、
   (元亀三年)五月廿日   (武田)信玄(花押)
    安 養 寺

同年十一月五日、朝倉義景は安養寺あてに、「武田信玄が遠江に至り出馬の儀について、遠三 (遠江・三河)両国の様体を山崎長門守まで注進の趣はつぶさに披見しました。お気遣いの段、 ご苦労です。郡上郡の将来についてはいよいよ油断ないよう心がけられて下さい。詳しいことは 長門守が口頭で申し上げる」(安養寺文書)という書状が送られています。安養寺は岐阜の信長 の背後を突く包囲の鍵を握っていたと言えます。

朝倉義景書状
就武田信玄、至遠州出馬之儀、遠三両国之様体、山崎長門守 迄注進趣、具披閲候、誠御気遣之段、祝著之至候、仍其郡行 等之儀、彌無油断之様、可有馳走事肝用侯、猶長門守可申候、
恐々謹言、
  (元亀三年)十一月五日  (朝倉)義景(花押)
   安 善 寺

甲斐の武田と越前の朝倉などの間に立って奔走し、遠藤氏とくに本願寺のために尽くしていた 安養寺は甲越連盟の張本であった咎を受けて天正の始め(一五七三)織田信長により寺院を焼か れ飛騨白川に退去させられました。天正三年五月、織田信長は請により、安養寺の本地還住を許 し、境内寺領など前々の通り恢復させました。乗了は天正一七年(一五八九)四八歳で没し、了誓 がその後を継ぎました。しかし安養寺の勢力と声望は依然として高く、大島にあって、末寺信徒 の絶大な尊敬を受けていました。

江戸時代、安養寺は武装解除し、郡上八幡に退去させられました。余談ですが、近年農地区画 整理のため、安養寺跡地の田を掘り起こしたことがあり、大量の武具が現れましたが、また埋め 戻されたとの事です。

以上
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