板津の地名について Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎


姓氏の八十%は地名が起源と言われていますから、板津氏のルーツをたどる手だてとして、 板津の地名を探る必要があります。板津の地名は次に述べる七つがあります。

(下記の目次をクリックしますと、それぞれの項目にジャンプします。)

目次
一、加賀板津荘
二、島根県簸川郡湖陵町板津
三、新潟県北蒲原の旧村板津村
四、近江の国高島郡川上荘板津木郷や板津
五、三重県南牟婁郡紀和町木津呂・板津呂
六、九州企救郡到津荘
七、板津横穴

一、加賀板津荘
板津氏発祥の地名です。平安時代後期から室町時代に見える荘園で、民間で使われた荘園名です。中央では郡家荘と言われていました。

板津荘の号は嘉応三年(一一七一)二月の中原頼貞譲状案に初見し、次いで、文和二年(一三五三)九月二十四日の遊仙窟奥書、延文二年 (一三五七)七月一日の薬師寺の三千仏図、永享五年(一四三三)三月の長福寺領目録などに見えます。また戦国期に入ると勧修寺文書にも 「御領板津庄」と書くものがあり、文明六年九月六日の「印明之事」など東寺勧智院聖教や勧修寺聖教の奥書、冷泉為広の「越後下向日記」、 本願寺証如の「天文日記」などに登場します。「板津」の称は一向一揆の在地組織「板津組」の称を経て、近世の「板津郷」に受け継がれま した。現在は「板津」の地名は無くなってしまいましたが、小松市の梯川の北側を板津地区の呼称で呼んでいます。ここに小松市板津地区体育館、 JA小松市板津、JA小松市板津研修センター、板津中学がわずかに板津の名で残されています。板津中学の近くに板津成景の屋敷跡とされる御館町があります。 なお寺井町小長野の北八丁川の辺りを長者屋敷と呼びますが、ここは板津氏より分流した長野氏の屋敷跡と考えられます。
板津姓が歴史上初めて登場したのが文治二年(一一八六)であり、その後突然消え、再登場したのが永徳三年(一三八三)です。板津荘と 板津姓の出現と、再登場の時期がほぼ一致していますから、鎌倉時代には板津荘の呼び方が忘れ去られていた事も考えられます。

郡家荘は最初は皇室領の安楽寿院領としてまず立荘された後、承久の乱で没収され勧修寺領となり、いったん安楽寿院領として回復しまし たが、再び勧修寺領として伝領されたと推測されます。建武三年(一三三六)九月十七日には勧修寺の一円進止領となりました。その後文和 四年(一三五五)七月十八日の足利尊氏御教書は守護の兵糧徴収を停止させており、応永十七年(一四一〇)七月廿日の斯波満種遵行状では、 守護不入地として二宮信濃入道なるものが郡家荘内の売却地に干渉することを禁じており、応永十八年十月廿七日の畠山満家施行状も、一円 進止地として安堵しています。「建内記」の永享三年(一四三一)三月十日状によれば、百姓の逃散は二松の責任としています。二松備前入 道永薫申状には預所職を解任された二松氏は、文安元年(一四四四)六月幕府に訴えて預所職の返付を求めましたが、細川家家臣の安富勘解 由左右衛門が預所職を得ています。この郡家荘預所職を巡る二松氏と安富氏との対立はその後も続き、勧修寺の支配は多事多難でした。
郡家荘については、かって「和名抄」に見える江沼郡郡家郷と混同され、江沼郡所在の荘園とされてきました。今でも史料集・歴史辞典等 で、中世郡家荘を江沼郡所在と誤解しているものがあります。それは一つには、郡家荘が板津荘と同体であることが理解されなかったことに よると思われます。

郡家荘が板津荘と異称同体であることは三森定男氏によって明らかにされ、次いで井上鋭夫氏・浅香年木氏によって確認・補強され、既に 定説化しています。
二つの荘号のあり方については、当初板津の荘号で呼ばれましたが、安楽壽院領となって郡家荘と称され、その後戦国期になって在地の一 揆組織「板津組」による自主管理体制確立の動きが反映されて、板津荘号に復したものであろうと説明されてきました。しかし、史料上では 郡家荘の号の初見が早いことが確認され、また途中板津荘の号も使用されていることから、この説明では不十分と思われます。
史料における呼称のあり方から見れば、郡家荘の号は安楽壽院・勧修寺など荘園領主の立場から一貫して用いられています。一方在地にお いては、大徳寺文書に「郡家南庄」の使用例が見られますものの、板津庄の号がほぼ一貫して使用されています。従って「郡家庄」・「板津 庄」の号は併用して用いられたのであり、概して「郡家庄」は領家の立場からの、「板津庄」は在地側からの呼称とみなすことが出来ましょ う。しかし「板津庄」の呼称は史料の上では鎌倉時代直前の中原頼貞譲状案しかなく、室町時代に入ってから史料が発見されている事は注目 すべきです。
郡家荘は湊川(手取川)と安宅川(梯川)に挟まれ、西は日本海に面する砂丘地帯を形成していました。中央部から南部にかけて肥沃な能 美平野の一角を占めましたが、鎌倉末期以後直接に史料には現れないものの、湊川の洪水の被害をしばしば受けていたと思われます。
郡家荘の荘域の総体を示した史料は今のところ見あたりません。鎌倉後期頃郡家荘は九郷から構成されていることがわかりますが、具体的 な郷名の全てまではわかりません。郷(保)名として早く見えるのは、長野と東吉光保です。
鎌倉後期には、荘域は南庄・中庄・北庄に分けられていた模様で、南庄には高坂郷・上郷、中庄には任田郷が確実に含まれ、中郷・下郷は 南庄、今湊は北庄に含まれていたと思われ、ほかに二口・五家堂が中世地名として知られます。

二、島根県簸川郡湖陵町板津(平成時代にも現存)
板津の地は出雲市の西に隣接した湖陵町の中にあります。東は神西湖、西は日本海、北は差海に接します。神西湖は出雲風土記に出てくる 神戸水海です。日本海は美しい砂浜の海岸で、海岸は國引き伝説の綱の部分に相当する小高い丘陵地帯が連なっています。現在板津地区には 板津区墓地・板津交差点・板津児童公園・板津公民館・出雲風土記に出てくる荒神社などがあります。
板津の地の由来を示す確証となる古文書は残されていないようです。神西湖の岸に杭打ちして板で土止めして、土地を拡張して来た歴史か ら、板津と呼ばれるようになったと言います。
また、板津は板の如くなだらかな津が起源であるとも言います。
もう一つはこの地方のお年寄りによると、「枝津が板津になった」というのもです。神西湖はかって枝のような細長い丘陵地帯が伸びていた津でした。毛筆で書くと枝の 字は板と極めて類似しています。
板津の起源は江戸時代ですから、板津氏の起源とはなりません。この地方に伝わる國引き伝説を紹介しましょう。

むかしむかしの、そのまた昔。八束水臣津野命は、出雲の國をしみじみと眺めて、こう言いました。「この八雲立つ出雲の國は、なん と狭いことだ。神々は、初めからずいぶんと小さくつくったものだ。よし、わしが大きくしてやろう」そういって新羅の國の方を見ると、余 っている土地が見えました。
そこで、さっそく新羅の國まででかけていって、余っている土地に、大きな鋤をうちこみました。そして、三つよりによじった太い綱 を 打ちかけて、ちょうど川船でも引くような調子で「國来(くにここ)、國来」と勇ましいかけ声をかけながら、出雲の北側まで引っぱって くると、さっそく縫いあわせてしまいました。
その縫いあわせた所というのが、今の日御崎あたりだそうです。また、その時、この 土地が離れてしまわないようにと、今の三瓶山 に、大きな杭を打ちこみ、綱のはしをしっかりと結びつけましたが、そのとき、綱から落ちた砂が園の長浜になったという ことです。以下略
山陰地方のむかし話し」より

三、新潟県北蒲原の旧村板津村
明治廿二年四月一日北蒲原郡板山村・上羽津村・下羽津村が合併し村制施行。明治三四年十一月一日北蒲原郡大宮村・竹ノ俣村・石田村と合弁(川東村設置)、消滅。現在新発田市。

四、近江の国高島郡川上荘板津木郷や板津
美濃に移住した板津氏の伝承上の地名です。

五、三重県南牟婁郡紀和町木津呂・板津呂
板津呂氏発祥の地です。木津呂は熊野川水系北山川の上流にある部落名です。板津呂は北山川にある瀬の名前の一つです。
板津呂氏発祥の経緯より、木津の地名は板津氏の発祥に関係があるかも知れません。

六、九州企救郡到津荘
神功皇后が朝鮮征伐から帰ってきたときの港に因んだ名といいます。到津は「いたづ」とも読むことが出来ます。
新潟県内の板津氏には、この系統の板津氏が有るとの説がありますが、真意の程は明らかではありません。

七、板津横穴
富山県氷見市内には板津横穴、加納横穴群、脇方横穴古墳群、阿尾横穴古墳群、阿尾瀬戸が谷内横穴古墳群などがあります。中でも加納横 穴群は規模が最大です。
横穴墓の形態は、底面の形が正方形に近い三味線の胴張りの形のものが大部分を占め、奥壁の立ち上がりは、垂直なものと丸みをなすもの があります。その玄室(棺を納める部屋)は大きく、奥行一、三五〜二、七〇メートル、高さ一、二十〜二、三十メートルといろいろな大き さのものがあります。中には、玄室が二室直結したものや排水溝が設けられたものもあります。
出土遺物としては、直刀、刀子、銅製双竜環頭、金環、めのうの曲玉、水晶の切子玉、ガラス製の小玉、須恵器、土師器、土師質小皿、小 銭、人骨などがあります。

トップページへ
inserted by FC2 system