第一章 加賀重友・長野領主板津氏とその末裔達

板津 昌且

一、大先祖・利仁将軍と説話の数々

平安時代後期に加賀国を代表する在地武士団として登 場するのは、いずれも北加賀石川郡の手取川扇状地に開 発本領をおいた林氏と富樫氏である。彼らは扇状地とい う困難な条件の中で地域開発を行い、在地領主として成 長していった勢力で、源平合戦の頃に初めて歴史の表舞 台に登場する。彼らは、南北朝室町初期に纏められた系 図集「尊卑分脈」のなかに、民部卿藤原時長の子鎮守府 将軍藤原利仁の後胤として見えている。

利仁は光仁天皇に仕えた左大臣、藤原魚名六世の孫で あるといわれ、祖父高房は越前守、父時長は鎮守府将軍 で、越前押領使(反乱や暴徒を鎮圧する司令長官)とい う役職を持ち、その妻は、坂井郡の豪族、秦豊国の娘で、 その間に利仁は生まれた。秦氏は帰化人の子孫だが、加 賀国と隣接する坂井郡を領し、威勢を振るった。利仁は 敦賀の豪族有仁の婿となり、敦賀に本拠を置いた。従っ て広く敦賀から三国まで越前全土に勢力を張ることとな る。

延喜一五年(九一五)、関東で戦功をあげ鎮守府将軍 に任ぜられ、従四位を授与された。
彼の武人としての性格において興味深いのは、異民族 に対する戦闘での軍功が強調されていることである。『尊 卑分脈』は『鞍馬蓋寺縁起』の利仁に関わる一節、つま り「智勇淵偉にして、将帥(しょうすい)たるに足る、突蕨の類、帰 服せざるなし」にはじまり、「ここにもって、天下に振 るい、武略海外にかまびすし」に至る一節を引用してい る。それでは『鞍馬蓋寺縁起』の中の利仁について紹介しよう。

第四段又鎮守府将軍藤原利仁と云ふ人あり、武勇 淵偉にして将帥たるに足れり、突厥の類、歸服せず といふ事なし、爰に下野国高座山のほとりに、群盗 蟻のごとくにあつまりて、千人党を結べり、藏宗藏 安其前鋒たり、關東よりの朝用雑物彼党類の爲に常 に被2抄劫1 国の蠱害唯以て在レ之。
第五段これによりて亦公家有テ2評議1忽ニ其人をゑら ぶに天下の推ところ編ニ利仁にあり、異類誅罸すべき よし宣旨を下され、利仁精撰をスといへども、尚か ちがたき事を恐れて、仍天王の加被を仰で當山に参 詣し、立願祈精ス即チ示現あり、鞭をあげて下野国に進 發し、高座山のふもとに下着す、于レ時六月十五日 なり、心におもふところありてたちまちに橇(かんじき)をつ くらしむ、やうやく深更に及で、近く腹心の武臣を めして、天雪降やと問ふ、郎従將略を知ずして、天 はれたりと答ぬ。将軍大ニ怒て忽に劔を賜てころさし む。

第六段又少し時をへて他の勇士をめして前のごと く問ふ、前事のいましめをおもひていつはりて雪ふ るよしを答ふ、利仁甘心服鷹ス。半夜に及で、陰雲四 含、白雪高ク積ル萬壑千岩高下を隔ず、徐々至レ曙ニ天晴 雪止、利仁千里の籌をめぐらして、四方の兵を率し て、鹿敷(かつ)をつけて、鵝毛をおそれず。賊徒飢凍して 寸歩することあたはず、利仁乗レ 勝逐逃1ヲ以テ常レ千、 遂に凶徒を切て馘を献ず、これによつて名威天下に 振ひ武略海外にかまびすし、即チ宿願をとげむが爲に、 毘沙門天王の像を造顯す、當寺において開眼供養ス帯 するところの劔をとひて大天荘巌のためにす、忽夢 の告ありて我これを納受せず、彼千人の首をきる劔 を以て我劔たるべしと云々、夢覚て後即施入し奉る、 爰に従兵の中、此劔を好ム者あり遂にやむことなくし て、夜中ひそかに寶殿をひらき玉體の間にちかづけ ば腰底の雄劔よもすがら昇降す、仰レ之彌高跛キ踵(シュ)及 がたし、直下在レ地携ル レ手ヲ不レ至、洞天己明ニ、倫兒逃 去、仍尊像を劔惜天王とも號したてまつる、脱レ2其 神剣ヲ1蘊納す、寶殿天下在レ乏窺翫せずといふこどな し。
鞍馬蓋寺縁起鞍馬寺史

これに関連して新羅征伐に行く途中に調伏によって利仁 将軍が死んだという話が古事談にある。

圓珍ノ調伏ニヨリ利仁将軍頓滅ノ事
宇多の御宇、利仁将軍新羅を討ちたりけるあひだ、 彼の国の海上にて頓滅すと云々。この事智証大師御 入唐の時、彼の国の語(かたらひ)によりて、調伏を行はれけ る故か。

更に利仁将軍を説話の世界で有名にした芋粥の話が 「今昔物語」巻三一の十七と宇治拾遺物語」巻一の十八 にある。
芋粥(いもがゆ)好きの五位が藤原利仁に計られて敦賀の家に連 行され、豪勢な歓待攻めに目を見張ったが、一夜明けて、 膨大な芋粥の接待にあずかり、日ごろの念願もどこへや ら、うんざりして食欲も起きなかったという話。帰京時、 五位が莫大な贈物を受けたという、思わぬ不労所得のモ チーフが前話の宝玉の所得につながっている。芥川竜之 介の『芋粥』の素材として著名なもので、五位の卑少さ とお人好しぶりが豪放強大な利仁像と絶妙の対照をなし て、事件と人物が生き生きと、しかもユーモラスに描き 出された秀作。地方豪族の強大な権勢と経済力に対する 都人士の驚愕と関心のほどが汲み取れる一編でもある。

また利仁将軍と考えられる越前国の伊良縁の世恒とい ふ者が「取っても尽きることのない米袋」を貰った話が 「宇治拾遺物語」にあり、加賀の七人の漁師が蛇の願い によって百足を退治した話が「今昔物語」巻廿六の九に ある。俵藤太の百足退治の話はこれらの話が原点になっ ている。

伊良縁野世恒毘沙門御下文(くだしぶみ)の事
(宇治拾遺物語巻一五・七)
今は昔、越前国に、伊良縁(いらえの)の世恒といふ者ありけ り。とりわきてつかうまつる毘沙門に、物も食はで、 物のほしかりければ、「助け給へ」と申しける程に、 「門(かど)にいとをかしげなる女の、家主(あるじ)に物いはんと のたまふ」といひければ、誰にかあらんとて、出で あひたれば、土器に物を一盛、「これ食ひ給へ。物 ほしとありつるに」とて、取らせたれば、悦びて 取りて入りて、ただ少し食ひたれば、やがて飽き満 ちたる心地して、二三日は物もほしからねば、これ を置きて、物のほしき折ごとに、少しづつ食ひてあ りける程に、月比(つきごろう)過ぎて、この物も失せにけり。
いかがせんずるとて、また念じ奉りければ、またあ りしやうに、人の告げければ、始にならひて、惑 ひ出でて見れば、ありし女房のたまふやう、「これ 下文(くだしぶみ)奉らん。これより北の谷、峯百町を越えて、 中に高き峯あり。それに立ちて、『なりた』と呼ば ば、もの出で来なん。それにこの文を見せて、奉ら ん物を受けよ」といひて去(い)ぬ。この下文を見れば、 「米二斗渡すべし」とあり。やがてそのまま行きて 見ければ、まことに高き峯あり。それにて、「なり た」と呼べば、恐ろしげなる声にていらへて、出で 来たるものあり。見れば額(ひたひ)に角(つの)生ひて、目一つあ るもの、赤き褌(たふさぎ)したるもの出で来て、ひざまづき て居たり。「これ御下文なりこの米得させよ」とい へば、「さる事候」とて、下文を見て、「これは二 斗と候へども、一斗を奉れとなん候ひつるなり」と て、一斗をぞ取らせたりける。そのままに受け取り て帰りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗尽き せざりけり。千万石取れども、ただ同じやうにて、 一斗は失せざりけり。
これを国守聞きて、この世恒(よつね)を召して、「その袋、 我に得させよ」といひければ、国の内にある身なれ ば、えいなびずして、「米百石の分(ふん)奉る」といひて 取らせたり。一斗取れば、また出でき出できしてけ れば、いみじき物まうけたりと思ひて、持(も)たりける 程に、百石取り果てたれば、米失せにけり。袋ばか りになりぬれば、本意(ほい)なくて返し取らせたり。世恒 がもとにて、また米一斗出で来にけり。かくてえも いはぬ長者にてぞありける。
以上
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