二、板津氏の起こり Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  利仁の子孫を称する武士団が北陸に広く分布している 様子を尊卑分脈は伝えています。その中で林氏の庶流と して位置づけられる板津氏が郡家荘(板津荘)の歴史に 深く関わり、その子孫は中世後期に到るまで確認される 板津氏と長野氏です。
  在地領主の林氏の祖と見られるのは十二世紀前半の人 物と推定される貞光であり、「加賀介」または「林介」 を称しているように、雑任国司(ぞうにんこくし)から有力在庁(国衙の役 人)となり、更に石川郡にあった公領拝師郷(林郷)の 郷司職を得て土着し、その開発につとめたものと推定さ れます。貞光の持っていた二つの所職、林郷の郷司職と 「介」の地位は二人の子息光家と成家とにそれぞれ分け られ、林氏はまず二つの系に大きく分かれて行くのです。
  「林大夫」の称が見える林光家はおそらく加賀国に関 係した貴人の家人となり、従五位の位を得たのでしょう。 名前の一字に「光」という共通文字(通字)を用いた光 家の流れが林郷を本拠とする林氏本流となり、其の子光 明、孫の光平は「平家物語」諸本に源氏方の武士として 登場します。
  一方林成家(しげいえ)については鎌倉時代初めに編纂された説話 集「古事談」の中に見える平忠盛の家人で、上皇の命令 よりも主従関係を重んじる武士の気概を示した「加藤大 夫成家」と同一人物でしょう。
  「古事談」の説話を要約すると次のようになります。 殺生禁断命令にもかかわらず、成家が鷹狩を行っ ているとの話を聞いた法皇は、使いを出して成家を 御所に召喚します。このとき成家は従者として下人 二人を連れ、御所の門前に鷹をつなぎとめて、一人 参内しました。
  法皇は激怒し、殺生禁断を命じてから何年にもなる のに何を考えて鷹狩をするのか、朝敵とみなすぞ、 と高飛車に言い放ちます。大夫の位を持つ成家です が、法皇から見ればたかが一介の田舎武士一人、当 然と言えば当然の態度です。しかし成家の返答は、 法皇をして唖然とさせました。成家は白河院の近臣 ・平忠盛に仕える家人で、しかも、もと法皇お気に 入りで今は忠盛の妻・祗園女御のために、毎日小鳥 を届けていたと言うのです。「もし万が一さぼって しまったら重い罪に問われ、武家の習いとして重罪 を犯せば、主人に首を切られてしまいます。法皇の 勅命に逆らっても、牢獄につながれるか流罪ですみ ます。命には代えられませんので、喜んで参内いた しました。」
  庶流にあたる成家(しげいえ)の流れは「成」を名前の一字にして いますが、能美郡板津地域に進出し、「介」の称号を継承 した成家の子、板津成景(しげかげ)以来「景」を通字とするように なります。これが板津氏であり、「介」の敬称は国衙在庁の 地位の継承を意味し、加賀国府の所在する能美郡への進 出も、これに関係するのでしょう。
  在地領主を先頭とする集団による地域開発が中世荘園 (寄進地系荘園)成立の前提と言われており、その意味 で板津氏による板津地域開発の成功が板津荘(郡家荘) 成立の第一歩であったと言えます。
  それでは板津氏はどのようにして板津地域に足がかり を築いて開発に成功し、またどのような経緯で観修寺流 藤原氏に荘園として寄進されたのでしょうか。残念ながらそれを 具体的に語ってくれる史料は知られず、当時の一般的状 況から推し量ることしか出来ませんが、一応その状況を簡 単にたどってみましょう。
  十一世紀以来、地域の開発に成功した在地領主達は、 国司の支配から開発領を守るため、摂関家などの中央有 力貴族や大寺院に寄進する動きが目立ってきました。これに 対して、国司は中央政府に要請して度々荘園整理令を発 布してもらい、荘園整理を抑制しようとしました。
  院政期にはいりますと、中央政府は地域に生まれた新たな 開発領を「別名(べつみょう)」(税率を低く抑えて優遇した名)と して公認し、国衙に直接掌握させました。其の結果、従来の 縦系列の行政組織であった郡郷制(国、郡、郷、荘、保、 理)は再編成されていきました。従来の郷から分立した別名 はやがて「保(ほう)」「院(いん)」等と呼ばれ、公領の新しい単位に 組織され、残った「郡」や「郷」なども国衙に直結する 公領の単位となりました。
  しかし公領といっても、院政期における院宮分国制や 知行国制のもとでは、その多くは分国主の関係者に給与 としてあてがわれ、実質的には荘園とほとんど異ならな いものでした。中世の土地制度が荘園公領制と称され るのは、そのような理由からです。
  板津の地域はもと兎橋(うはし)郷あるいは山下郷の一角であっ たと言われますが、板津氏は在庁の立場を利用してここに 入部し、開発の拠点として屋敷を構えたのでしょう。「板 津」が彼らの開発本領、苗字の地となったのです。
  板津氏は板津地域の開発を国守に申請し、国守から「保 司」に任命されて住人に対する雑役の賦課・免除の権限 が与えられ、彼らを組織して地域開発に乗り出し、一定 の成果をあげたのでしょう。史料的には確認できませんが、 荘園となる以前に「保司」板津氏の開発に関わる「板津 保」が成立していた可能性は大きいです。
  さて「板津保」がどのような契機で加賀国務を握って いた勧修寺流藤原氏に寄進されたかは想像の域を出ません。 その時期は、藤原顕頼が知行国主で、養子顕広が加 賀守であった天承二年(一一三二)閏四月から保延三年 (一一三七)十二月までの期間でしょう。
  そしてその期間板津氏の当主として寄進に関わったの は、世代的にはおそらく有力在庁として国守あるいは目 代との関係が深かったであろう成家の頃ではないでしょうか。
  寄進地系荘園成立の一般的あり方から考えれば、寄進 者である在地領主板津氏は荘園の下司(げし)となって、所職(収 益を得る権利)と地域における社会的地位を確保したと 考えられるところですが、郡家荘における板津氏の立 場は不明です。少なくとも鎌倉時代に同荘地頭であっ た形跡も見あたりません。
  板津荘の事を領家側がほぼ一貫して「郡家荘」と称するのは、彼ら にとっては立荘当初からその名称で登録されたためであ り、一方地域において「板津荘」と称されたのは、地名 として、又かっての「板津保」の記憶が伝承されたから に他なりません。
  次に示す系図は「尊卑分脈」を基本にして、石清水八 幡宮の「菊大路家」文書、その他文書及び各家系図で加 筆訂正して作成されました。徳川時代初期まで纏められてお り、太線が板津(長野)氏の直系です。
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