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板津昌且

●項目リスト
◎仲原頼貞より重友村を譲渡される
◎源平合戦と加賀武士
◎源頼朝・板津成景の濫妨を止める
◎板津成景、板津景高に重友村を譲渡する
◎成景の館跡
◎御館 石川県能美郡誌
◎御館の銭畑等の字地名群

1.仲原頼貞より重友村を譲渡される
嘉応三年(一一七一)二月、加賀国府庁の役人であった、散位、中原朝臣頼貞が、介次郎に自己の所領、重友 村を譲渡しました。その証文は次のようなものです。
仲原頼貞譲状(案菊大路家文書)

譲渡相傳證文事
在 牛嶋堺板津庄訪示外重友村
右、件村者、瀬貞之重代相伝之上、国司代子細於申上、
重仰下、而件所皆損亡仕荒廢之地也、且依有事之縁、介
次郎殿加證文奉付申了、然件村御屋敷之近邊也、早浪人
招寄、任御下知之状、可有勧農也、仍爲向後、證文譲状如件、
嘉応三年二月 日 散位仲原朝臣瀬貞 在判

これを見ますと、重友村は板津庄の訪示外にあって牛島 との境界に位置していました。訪示と言うのはぼうじのミス で庄園の境界を示す標識のことです。その重友村は中原頼貞の「重代相伝」つまり先祖伝来の土地で 国司代に、子細を申し上げて重ねて仰せ下ったものであると述べています。国司代とは国司の代理、即ちその頃は 任命された国司は都に在って任地に行かない所謂「遥任国司」で、任地には自己の代りとして、国司代を置いた ことを指すのです。その土地が「皆損亡仕り、荒廃の地」になっていることを記し、今度縁あって「介次郎(すけのじろう)」 殿に証文をつけて譲ることになったが重友村は「介次郎」殿の御屋敷の近くですから、早速に浪人を招寄せられて国 衙の御指示に任せて「勧農」されるようにとすすめ、向後のためにこの証文譲状をつくったと述べています。

この頃、つまり平安末期では律令体制は崩壊していました。即ち一定の土地を公民に配分し、租庸調の税負担を課し た「班田収授」制は消失し、地方の国々では、皇室、公卿、大社寺などの権門による荘園領が拡大し免租地とし ていわゆる不輸不入の特権をもつものが多かったのです。一方過重負担や貧困で田地を離れた農民たちは「浪人」とな って、豪族つまり土着した在庁官人とか、荘園を直接管理する庄官たちのもとに集まり、国衙の許可のもとに、 荒廃した土地、未墾地などを開発する際の労働力としてその配下に属し、その郎等となるケースも多く見られました。 耕作地を増加し、農業を振興することは国家の方針ですから、地方の在地領主たちが自力で、こうした浪人を 招き寄せて荒廃地を開発することは、国衙としても奨励し進んで許可したところでした。勿論そうした自墾地 はその開発者の領有地となったことは言うまでもありません。なお重友村の「村」のことですが、現在のわれわれの 概念で考える村落としての村ではなく、未開発、荒廃の土地を指すことも多かったようで、この場合も荒廃損亡 して浪人を招き寄せて勧農しなければならなかったことは、この村が人間のいない土地であったことを推定させ ます。この証文に出てくる介次郎も、中原頼貞も、ともにそうした在地領主としてこの地方に活躍していたメンバ ーであったと推測されます。

ここに現れた二人の人物、即ち重友村を譲った中原頼貞と、それを譲り受けた介次郎とは如何なる人物であっ たのだろう。
まず中原頼貞ですが、彼が中原朝臣頼貞と称し、しかも散位であることから、加賀国衙の役人、つまり在庁 官人の一人であることは間違いないでしょう。散位というのは位だけあって役職のない者の呼称でした。しかも「重 友村」が重代相伝の地であると言っていますから、在地領主として、多くの私領を持っていたことも推定されます。 もともと中原氏は中央の名門の一つであり、加賀国府に赴任してきた権勢家です。そのことは歴代加賀国司お よび介、掾などの高官氏名の中に中原姓を持つ者が多く、この中原頼貞と同時期にも、久安五年(一一四九)十二 月に加賀介中原師業、仁安三年(一一六八)一月に加賀権介中原盛能、建久八年(一一九七)加賀権守中原師直 らの氏名が散見されることでもうかがうことができます。その一門であった、この中原頼貞が相当の勢力をもって いたことは、白山中宮八院の一つ蓮華寺を建立寄進していることによっても推察できます。
即ち、元徳二年(一三三〇)に、白山中宮八院の衆徒たちが、能美郡軽海郷をその前年の嘉暦四年(一三二九) に荘園領とした武蔵国称名寺を相手取り、八院の所領との地境を争って、後醍醐天皇の勅裁を請うた事件があ りましたが、その訴状の中で八院各寺の由来を述べているくだりの一節に次のような文言があります。

蓮花寺由緒(稱名寺文書)
・・・・(前略) 蓮華寺者、本願主中宮院主兼長史覚祥、久安五年十月十一日寄進御山末寺、仁安元年九月 日散位中原頼貞贖而令建立、当年申請国衙外題并在庁連署於解状之奥書、同十一月日目代等堺敷地之四 至、与奉免状□ ・・・・(後略)

言うまでもなくこれは蓮華寺の由来を述べたものですが、これによるとこの寺は仁安元年九月(一一六六) に中原頼貞が経費を投じ建立し、その年に中宮八院つまり白山宮所領として、国衙の承認を申請し、十一月に国 司の代官である目代らによって敷地の四方の境界を定めたことを記してあります。仁安元年はさきの重友村譲渡証文 の年、即ち嘉応三年より、五年前のことです。

蓮華寺がどの程度の規模の寺であったか知ることができませんが、一つの寺院を建立、寄進するということは相 当の経済力を持った者でなければできないことは言うまでもありませんから、中原頼貞の社会的地位も有力なものであ ったことはこれでも理解できます。
ついでに蓮華寺の所在地は諸説あってさだかでありませんが、その兄弟寺院即ち護国寺は五国寺、昌隆寺は正蓮寺、 隆明寺は立明寺、涌泉寺は遊泉寺、といった現在の小松市東部山間地帯の各村々がその跡を止めており、また善 光寺は原町の近辺、長寛寺は中海町の近辺、松谷寺は五国寺の近くに位置したと思われます。
なお、これらの八院の各寺は前述の奏上文(省略した部分に含まれている)でその由来を述べておりますが、護国 寺が承保元年(一〇七四)、昌隆寺、承保二年(一〇七五)、松谷寺、応保三年(一一六三)、長寛寺、長寛二 年(一一六四)、涌泉寺、建久六年(一一九五)にそれぞれ、その寺領地を国衙から確認されていると主張して いますが、このことは、白山中宮の勢威が軽海郷一帯に確立した時代がこの頃かとも推定されます。

次に「介次郎」と呼ばれた人物について検討してみましょう。
この証文にもあるように、板津庄の境界を示した標識の外側にあり、牛島堺にあった重友村の近辺に「御屋敷」 があり、しかも早速、浪人を招き寄せて勧農できる実力を持った在地領主であり、加うるに「介」の称号を有す る人物となれば、諸書の一致して指すように「板津介成景」のことでしょう。

2.源平合戦と加賀武士
治承三年(一一七九)木曽義仲は京都を目指して北陸道進出をはかりました。加賀の武士達は木曽義仲に我が身を 託して平氏政権に対して反乱を起こしました。驚いた平氏政権は、教盛(のりもり)の子通盛(みちもり)を北陸道追討使として越前に派遣し ました。加賀の住人は越前に侵攻し、通盛らは敗走(はいそう)してしまいました。寿永二年(一一八三)平氏政権は総力を挙げて北 陸道の制圧に乗り出しました。平維盛は越前の燧城に篭もる反乱軍を攻め落としました。「平家物語」諸本は、燧城に立 て籠もった加賀の武士として、林・富樫・井上・津幡・倉光の諸氏を挙げていますが、板津氏については以後も「平 家物語」諸本の中にその名はありません。加賀を制圧した追討軍は倶利伽藍峠で反乱軍も合流した木曽義仲軍に敗れ、 その追撃を受けました。加賀の武士達は木曽義仲の軍にあって、一時は京都に凱旋しました。しかし木曽義仲と源頼朝と が不仲となり、京都に於ける義仲の悪評が高まるにつれ加賀の武士達は義仲のもとを離れ故郷に落ちて行きました。 義仲は味方からも信頼を失い、寿永三年(一一八四)源義経・範頼によって近江の国で討たれました。この一連の戦 の中で、板津成景の弟倉光六郎成澄が義仲軍に入り活躍していますが、成景がどんな行動を取ったかは定かではありません。 「新修根上町史」によると、成景は義仲の軍には入らず、早くから頼朝と主従関係を結んでいたとの指摘があります。

3.源頼朝・板津成景の濫妨を止める
木曽義仲が滅亡したあと、中世初頭の加賀・能登を含む北陸道南西部は、源頼朝の代官である「鎌倉殿勧農使」 (後の守護)比企朝宗の管理下に置かれる事となりました。
成景は江沼郡額田、八田両郷を在地土豪と共謀し、これを横領しようと企てました。その領家である京の貴族、内 大臣源通親の訴えで、文治二年(一一八六)の九月、頼朝は後白河院領であったと思われる加賀国江沼郡の額田 荘にあてて、次のような指令を出しています。

加賀斉藤氏の一員である板津介成景と宗親法師の「濫妨」を禁止します。同じく加賀斎藤氏の一族である加藤次 成光が、勝手に地頭と称し続けている「乱行」も禁止します。更に内舎人(うどねり)朝宗(比企朝宗)の代官の平太実俊が、 額田荘の南の境界線を示す傍示を抜き取って、荘域を侵犯しているのは不当です。

源頼朝下文案(平松文書鎌遺一七一)
鎌倉右大将
    判
下 加賀国額田庄住人
 可令早停止字板津介成景・宗親法師、庄領八田・額田
 両郷妨、内舎人朝宗代官平太実俊境妨、加藤次成光号
 地頭旁無道等、爲領家進止事
右、件庄加納八田・額田両郷是也、爰成景并宗親法師背
院庁御下文・国司庁宣状、令致濫防、先違勅之至、難遁
重科、而又朝宗代官実俊抜棄ぼう示、令防庄領南堺之間、
朝宗雖出去文、実俊猶不承引、同致防之条、甚以不当也、
抑又加藤次成光暗称地頭之由、企乱行云々、凡彼等之所行
尤以不敵也、自今以後、停止件輩等種々之結構、可令領
家進退領掌之状如件、以下、
    文治二年九月五日

治承・寿永の内乱を機会に、板津成景や加藤次成光のような在地領主が、貴族たちの既得権を侵害して、自分 たちの収益を拡大しようとしたのは事実です。それを「濫妨」や「乱行」と称して非難するのは、貴族側の言 い分であって、領主側とすれば武家の支配する社会を作るためには当然の行為でした。頼朝やその配下達は武力によって支配する領地を拡大してきたのである。成景らの行為を厳しく抑制した 所に、頼朝の貴族としての側面が見られると同時に、自己矛盾に陥っています。しかし、それよりも大きな問題は、貴族に送るべき年貢や夫役を抑 留して、収益の拡大をはかる地元の領主達の行動に対して、新たに割り込んできた「鎌倉殿勧農使」朝宗の代官 の行為が、境界線を破って土地そのものを押さえてしまう、極めて大胆な方法を取っていることです。成景た ちは、貴族の既得権を領主同志で奪い合う形となりましたが、この争いで敗者である成景・成光などの地元領主と、勝 者である実俊などの外来領主との立場の違いは、あまりにも歴然としていました。実俊の事もなげな侵略行為を目の 前にして、成景たちは敗者の悲哀をいやというほど味わう事になったのです。


4.板津成景、板津景高に重友村を譲渡する
建仁元年(一二〇一)七月廿日の地頭某譲状により、板津成景と見られる地頭某が次男江沼三郎(板津景高) に重友村を譲渡しています。

ここで介なる人物ですが、成景の長男白江新介のことを指すものと考えられ、地頭沙彌が板津成景と考えら れます。従って、この譲渡については長男が承知の上で行われたものです。しかし、介が板津成景であるとする 見解もあり、この場合地頭が誰になるのか分からなくなります。次ぎに江沼三郎ですが、尊卑分脈にある板津三郎 景高であるとするのが通説となっています。この説に対して、寺井町史を書いた平野外喜平氏は尊卑分脈には記載 されていないが、成景にはもう一人の江沼三郎なる人物がいたのではないかと主張されています。この点について は後の項で説明しましょう。

板津成景譲状案(菊大路家文書)
譲渡 能美御庄内重友保事
 合壹所
 四至 東限秋恒、西限郡家長野、
     南限得橋郷、北限郡家東吉光保、
右、次男江沼三郎譲渡処也、仍爲後々将来、證文之譲状如件、
建仁元年七月廿日  介   在判
地頭沙彌 在判

5.成景の館跡
土地の人は成景の事を御館(おやかた)と呼んでいましたので、彼の住んでいた所を御館(おたち:現在の小松市御館町)と呼ぶように なりました。御館には成景が石清水八幡宮より勧請したと伝えられる八幡神社があり、成景の守り本尊が今でも安置 されています。社に向かって左側の小さな祠がそれと思われます。八幡神社のお祭りは四月十五日と九月十五に行わ れ、内部を公開すると町のお年寄りは云っています。三百年ほど前に館跡から鋳銭百貫が掘り出され、今でも時々 中国銭が見つかるといいます。
御館町は成景の館跡であるとするのが通説ですが、河川や入り江の合流点と思われる官衛(加賀国府)のあ ったところという説もあります。

6.御館(石川県能美郡誌より引用)
口碑に、往時一介の士ありて、宏大なる館を造り伽藍に模す、彼れ衆望ありしかば、世人呼びて御館 と称す、其の末路を知らずといえども、今より三百餘年前、館址にて土民鋳銭数百貫を堀出せりという、 其庭中に安置したりしという守本尊の木像は今も神社にあり、御館区内には西堀、東堀、水洗口、馬場、 城門、門出、御(おちん)庵、大島等の名あり、叉小塔及墓碑を発掘せることあり。

7.御館の銭畑等の字地名群
御館町の宮田家の後ろの庭に銭畠と呼ばれる掘り起こしたらしい大きな穴があります。昔から夜明 け頃とか夕暮れ時になりますと、ここから金色の光が出るとか、この穴から目もくらむばかりの宝物が出た とか伝えられています。
町のお年寄りの話によると、西暦千二百年頃、梯川のほとりに小高い丘があり、そこに長者が住んで いました。この長者は情け深い人でしたから、土地の人たちは尊敬して御館(おやかた)と呼んでいました。
何百年かたってからむかしの御館のあとをたずね、村人のいい伝えをたよりに、長者の埋めたとい う宝物を探す人が出てきました。それがこの大きな穴だといわれています。
この辺は、昔土地が高く、約百五十年余り前までは、ここの「宮あと」とよばれる所には五百坪(約 千六百平方米)程にわたって老松が林をつくり、古い昔の名残をとどめていたといいますが、その後た びたび切り倒されて、明治の中頃には五、六本だけ残っていました。今は一面の平らな田になり、わず かに小高い畑があちこちにあるだけですが、土地はこの辺でいちばん高い所となっています。
長者の守り本尊は今も伝えられて御館八幡神社にまつられ、村人に年を取らず長生きするご利益を授 けられています。また村の南の端にみそぐらと呼ぶ所があり、石の塔が何十となく掘り出され今も残っ ております。
御館の土地の呼び名に東堀・西堀・城門・狭間(はざま)・門出(もんで)・八幡・御亭(おちん)・馬場・味噌蔵など昔の武士か豪 族が館をかまえていたようなのがあります。安宅の関守で有名な富樫泰家の一族板津氏が今から八百年 位前ここに住んでいたといわれ、御館の名はここからおこったのではないでしょうか。(「小松の生い立ち」より引用)

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