澤潟四郎さて景高の長野保と重友の一括相続に対して、江沼景能(かげよし)は、翌年十月譲状を持っていると偽って横領しよう としました。盛景は早速これを守護北条朝時に訴え、朝時は両者に出頭を命じましたが、何故か江沼景能は出頭しませんで した。翌安貞二年(一二二八)八月十七日、朝時は盛景の訴えを認め、重友村を前のように知行(ちぎょう)させました。江沼景能 はどんな人物で、何故出頭しなかったのでしょう。新修根上町史では景能は盛景の従兄弟としています。そうなりますと、伯父の景朝、景定の子と言うことになります。こ の時の盛景の年齢は十二項に述べる方法によると十一〜十七才と推定されますから、従兄弟は盛景よりも更に若年 であると考えられます。従って、伯父達が横領する行為に出るなら理解できますが、若年の従兄弟が横領しようとす る理由が見あたりません。 早野外喜平氏は景高と異なる江沼三郎の子孫が盛景に横領されたと考えられました。しかし、板津一族の領地は重 友と長野のわずか二村です。最初の頃は重友村一村だけでしたので、この村を景高をさしおいて尊卑分脈に も記載されていない江沼三郎に譲渡する理由が見あたりません。それに知行していた村をかすめ取られたなら、景 能が真っ先に出頭しても良いのに、朝時の再三の出頭命令に従わない理由もありません。更に、先に述べたように、江 沼姓そのものの存在すら疑わしいのです。こう考えると二つの説は否定されます。 これに対して筆者は江沼三郎に譲渡されたものが、かっては江沼三郎だった藤原景高から長野盛景に譲渡されたこと、更に最初に重友 村が譲渡されてから、一括譲渡迄二十年もかかっていることに着目しました。即ち江沼三郎が景高であるとしても、 二十年も経てば、第三者からみると江沼三郎が景高と素直に理解できません。そこに第三者が介入する余地があります。 そこで江沼三郎への譲渡の経緯を良く知った人物が、盛能が若年であることに付け入って、江沼三郎の子孫にな りすまし、江沼景能を名乗って横領しようとしましたが、若年にも係わらず盛景がやり手であったため、勝算無と みて出頭しなかったのではないでしょうか。
北条朝時下知状案(菊大路家文書) |