澤潟四郎それから五十年も経過した弘安二年(一二七九)九月、年老いた長野盛景は病を得て、明日の命も知れぬ我が身 を憂い、我が子三郎盛能に譲り状と共に重友村の地頭職を譲渡し、そして、親不孝や不義がない限り将来孫の彌 藤次に譲るべき事を「長野盛景譲状」により遺言しています。当時家督については嫡子が相続するという決まりが ありませんでしたが、この長野盛景譲状で嫡子への相続を決めたことになります。
長野盛景譲状案(菊大路家文書) この訴訟の背景には、佐羅村をめぐる徳治三年(一三〇八)の白山佐羅別宮との争いや、元亨元年(一三二一) 佐羅別宮神主をなのる山内荘地頭吉谷氏との争いなど、虎の威を借りる南禅寺と地元勢力との一連の紛争の中に 位置づけられ、南禅寺が長野氏の水利権を無視した為であろうとの指摘があります「寺井町史」。 この頃の在地領主は、用水路の要塞に自己の館を建てその用水で周囲に濠をめぐらし、非常の場合の防備とし、 また平時の領内の潅漑水路の確保と川下への水路権を掌握することが一般的に重要事項としていましたから、長野氏 も当時の館の位地は分かりませんが、八丁川及びその支流の水利権を確保していたのでしょう。
六波羅探題御教書(南禅寺文書)
この命令に長野総領地頭が従ったかどうかは分かりません。この時期は、後醍醐天皇が着々と討幕の計画を練っ
ておられた時期で、諸国の守護・地頭などご家人中でも北条一門の権力、所領の独占に対する不満と、元寇に対
する論功行償の不十分さに全国的に反抗の気運が高まり、鎌倉幕府の基礎が揺らいだ頃であったからです。
事実、五年後に幕府が滅亡したことを考えますと、多分長野総領地頭は命令を無視したものと考えられます。なお長
野総領地頭とは多くの地頭をとりまとめる地頭のことで、板津氏歴代当主の寿命推定計算によれば六十歳代の彌藤次をさすもの
と考えられます。 |