板津兵右衛門と土岐頼吉 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!
澤潟四郎

板津政吉の子、板津兵右衛門尉源頼光は天文元年(一五三二)の頃、濃州猿啄城の城主土岐 頼吉の軍師として、福地太郎右衛門之尉等と共に斎藤八郎左衛門俊直(利直)のこもる小 野山合戦において比類無き働きをしました。時の人狂歌を作り

小野山に歴々人が集まれど
板津兵衛に勝る者なし云々

と讀みました。

さてここで云う猿啄城主土岐頼吉というのは土岐氏支流の田原左衛門尉頼吉のことです。 従来、「新撰美濃志」などにより田原左衛門尉頼吉が猿啄城を一五三〇年に築城したものであると 信じられていました。しかし近年発行された関市「竜泰寺史」によると、田原左衛門尉頼吉は嘉吉 元年(一四四一)猿啄城主であった西村善政を殺害して城主になったといいます。これにより田 原左衛門尉頼吉は九十年以上も昔から猿啄城主であった事になります。「新撰美濃志」等の史料や 「滝田板津氏の記録」から考えて、嘉吉元年の田原左衛門尉頼吉の存在は疑わしく、「竜泰寺史」 の記録は誤記であしょう。

一方、斎藤八郎左衛門利直(宗祐、宗久)についての記録も大変少ないです。「新撰美濃志」に は小野山城は天文二十三年(一五五三)落城し、廃城になったと記載されています。なお享禄 元年(一五二八)に廃城になったと云う記録もあります。

斎藤八郎左衛門城、在下付二 村北下付一、 呼曰下付二小野山下付一、 里民云、天文廿三年城陥爲下付レ廢、然失下付二 傳記下付一而今不下付レ下付レ知、此山東属下付二神野 下付一東属下付二上有知下付一 南一面属下付二小野下付一、 然鄰邑呼爲下付二小野山下付一一名下付二大山下付一
濃陽志畧(天正を天文に訂正)より

いずれにせよ、今日極めて歴史史料の少ない、田原左衛門尉頼吉と斎藤八郎左衛門という人 物に板津兵右衛門が直接的・間接的に関わり持ったという事は地方史にとって貴重な史料を 提供するものです。しかも田原左衛門尉頼吉が小野山城を攻めたというのは新しい発見でもあります。

板津兵右衛門は滝田に戻り、境内に守り本尊の虚空大菩薩(虚空蔵大権現)を観請しました。 虚空蔵大権現は星宮神社の祭神となり、滝田橋(通称板津橋)北方百メートル程の道西の田 の中に祀ってありましたが、昭和四十年、耕地整理で稲荷神社に合祀して今日に至っています。虚 空蔵大権現は五穀豊穣の神として、また板津一族の氏神として信仰されて来ました。なお虚空蔵 大権現というのは白山信仰の御神体であります。
板津兵右衛門は板津外記尉源政光と改名し、天文十八年巳酉年八月十一日に卒去しました。法 号を一玄要三禅定門と云い、導師は若き天猷和尚でありました。その後、家伝書には武士として の記録はみあたりません。この時代の記録が欠落していることもあって、本当の所はよく解りません。

板津兵右衛門が卒去した二年前の天文十六年(一五四七)一月四日、田原の家臣、土岐氏 流の多治見修理は田原左衛門尉頼吉が祖母の法要で大泉寺へ出かけた隙に猿啄城を奪取しました。

以上が滝田板津氏の戦国時代の歴史であります。なお板津兵右衛門が天文元年(一五三二)に 小野山城を攻めた記録、多治見修理が天文十六年(一五四七)に猿啄城を奪取した記録、板津 兵右衛門が天文十八年巳酉年八月十一日に卒去した記録を勘案すると、小野山城が廃城とな ったのは天文二十三年よりもずっと前の天文元年(一五三二)と考えるのが妥当でしょう。

この後、猿啄城は永禄八年(一五六五)に織田信長に攻略され、城名を勝山城と改められました。
永禄八年(一五六五)以降の戦国時代、美濃は織田信長軍団に侵攻され、伊木城、鵜沼城、 猿啄城、蜂屋の堂洞城、関城などが落城しています。滝田は蜂屋の堂洞城へのルートに近く、 堂洞城戦で人馬に蹂躙されたものと考えられます。「富加町史」によると、滝田法源寺が管理 する阿弥陀庵の南に「みろく」という小地名があり、ここにみろく塚があったと伝えます。これ は弥勒寺の跡で、この寺は堂洞城戦で焼けたと伝えます。

碑文(富加町史 史料編より引用)
古来此處有一古墳環墳 皆漢字く田也 名其田云弥勒 又云伽藍 實遺跡平所 以石刻弥 勒尊一躯 以奉 安置于墳上者也
 功徳主 板津喜兵衛勝吉
 濃州加茂郡滝田村
 正徳元歳辛卯十一月五日

織田軍団の池田氏・森氏家臣としての板津氏
信長軍団の池田・森氏の家臣の中に板津氏が見られるので、この地方と池田信輝および森武 蔵守長可との関係を述べてみましょう。
信輝は天文五年(一五三六)に生まれたが、「関市史」によると、天文十一年(一五四二) に、志津野城(滝田に近い所)を築城し、この年鵜沼に移ったといいます。「濃飛偉人伝」では父 恒利の事と記載されています。信輝の家臣として楽田出身の板津善右衛門がいたと云います。これに ついては後に詳しく述べる事にしましょう。
天正十年(一五八二)の加治田合戦後、この地方は森武蔵守長可の支配下に入りました。慶長五 年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で板津庄五郎が上杉軍との対陣に戦功をあげました。板津庄五郎は 慶長九年(一六〇四)の美作国勝南郡の検地帳にも見えます。更に下って元和元年(一六一五) の大阪夏の陣では板津市左衛門、板津庄五郎の二人が数人の配下を従え参陣して首級をそれぞ れ一つ得ています。更に、大阪夏の陣には板津六右衛門の代人として彦八という者が板津姓で出 陣したと言い伝えます。板津市左衛門と板津六右衛門は別人のように見えますが、字体からして、 同一人物とも思えます。

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