板津氏のルーツ調査 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎こと板津昌且

今を去ること四十年前、私が大学生であった頃、自分のルーツを探りたいと考えていました。そんな時、本屋の棚に陳列 してあった尊卑分脈に手が届きました。調べてみますと、板津氏は藤原氏の一族であることを知りました。それから私の家 が岐阜県の出身であったため、簡単な地方誌で板津氏の記事を調べ始めました。ようやく、加賀能美郡に板津氏を名乗る武 士がいたことを知ったのです。しかしそれ以上の詳細を知る書物を探し出すことができませんでした。
 やがて日本電気に入社しましたが、業務に忙殺され、ルーツ調査は中断のやむなきに至りました。平成元年に子会社へと 移動することとなり、この会社ではかなりの頻度で全国に出張する機会がありました。そこで出張の機会を捉えて平成五年 よりルーツ調査を開始しました。
 まず富山への出張を利用して小松市を訪れ、図書館にて調査を開始し、「寺井町史」や「板津農協史」の存在を知りまし た。「板津農協」を訪れ「板津農協史」を手に入れることが出来ました。二回目に小松を訪れた時には、御館町や板津中学 などを巡って、御館町の住人とコンタクトし、町の様子をうかがい、写真を撮影しました。
 次は、板津氏の全国分布を作るために、地元の図書館にて全国電話帳をくまなく調べあげました(現在では「らくらく電 話帳」などのCDが市販されていますので、これを使用しますと、板津氏の全国分布は2〜3時間以内で終わってしまいます)。 この電話帳を元に全国の板津氏の家に片っ端に電話をかけて、その地方の板津氏の様子を調べ上げました。その結果系図を 持っている若干の家を探りあて、その系図のコピーを入手しました。また私の家の本家からも詳細な系図を入手しました。
 そして、系図と板津氏の居住している地方史についても国会図書館や地方図書館にて調査を開始しました。その結果平成 八年には板津一族に関する素案ができあがりました。
 集められた史料を検証しますと、武士出身者以外の家の記録は極めて少ないことが分かりました。従って今日多くの家を 数える犬山市や各務原市の板津氏の歴史を明らかにすることはほとんど出来ませんでした。なんとかこれらの関連史料をそ の後も探し続けましたが、決定的な史料は見つけられず、調査を打ち切らざるを得ませんでした。
 美濃の加茂郡に移住した板津氏には若干の系図が残されていましたが、系図は由緒がことごとく異なっていました。中で も田原藤太秀郷の子孫であるとするものがありました。はたして板津氏は田原藤太秀郷の子孫でしょうか、長年疑問に思っ ていました。ひょっとすると藤原利仁が田原藤太にすり替えられたのではないかと、思いを巡らしていました。しかし歴史 の専門家ではない私にはどうすることも出来ませんでした。そんなある日のこと、何気なく伝説の将軍田原藤太の本を手に したとき、私の思いと全く一致する記事を目にしたのです。
 それには、藤原利仁から藤原秀郷へと鎮守府将軍の地位と「ムカデ退治」の説話の二つの点で、利仁から秀郷へと権威が 移されていくプロセスが書かれていました。強力な助っ人が私の前に現れたのです。もう私の考えに疑う余地はありません。 そこで一気に板津一族の歴史を世に問うこととしたのです。
 以上が、私が板津一族の歴史を書き上げて来たプロセスです。
 板津一族の歴史を書き上げるに当たって、私には一つの不安がありました。それは、私は歴史の専門家ではありませんか ら、読者にはたして歴史をうまく伝えられないのではという危惧です。そこで、本書を三章から構成し、さらに各章は複数 の項より構成しました。ここまでは一般の書物と何ら変わりません。問題は項の中身で、本書のストーリーを構成する大事 な部分をどうするかです。前記した危惧を排除するため「公知の解説書」の中から必要な文言を細切れにして抜き取って若 干の修正を加え、これと、「引用古文書」および「私の意見」との三部構成となし本書を組みあげました。
 ここで板津一族の範囲を定義しておかねばなりません。板津一族とは板津氏の祖である板津成景の兄弟たちと成景の子孫 達の姓をいいます。具体的には板津成景の子で板津氏の名跡を引き継いだ長野景高、長野景高のもう一つの姓江沼三郎、長 野景高の兄白江景平、板津成景の弟、倉光成澄、宮永八郎国員の氏族で、板津氏、長野氏、江沼氏、倉光氏、白江氏、宮永 氏をさします。
 一つの家の歴史を明らかにする事は、極めて大変な作業です。家の歴史を物語る古い文書が殆ど残されていないからです。 まして、古文書によってその歴史を遠く中世の鎌倉時代まで遡ろうとする事は、天にきらめく星の中から彗星を発見するに等しい。
 鎌倉時代、板津氏は加賀能美郡の重友・長野領主として「一生懸命」に生きてきた経緯があります。幸いにして、京都の 石清水八幡宮の荘園であった長野、能美、一針のいわゆる「能美三庄」の関係記録が、同社の「菊大路家」文書として、嘉 永三年(一一七一)より、永徳十二年(一五六九)までの実に四百年の長きにわたって残されています。また京都、南禅寺 の荘園となっていた寺井町などの記録が、同寺文書で、正安四年(一三〇二)より、天文十五年(一五四六)までの約二百 四十年間にわたって残されています。
 寺井町や根上町に住んでおられる人々の中から、自分たちの住んでいる町の歴史を明らかにしたいという願いから、こう した古文書をもとに研究が行われてきました。その研究の成果が結果的に板津氏の歴史を明らかにする事につながりました。
 この地方の過去の地方史を調べてみますと、大々的に板津氏の歴史を明らかにされたのは寺井町に居住されておられる平 野外喜平氏でした。平野氏は「古文書より見た中世寺井町地方史」として研究の成果を纏められ、氏の成果は寺井町史に取 り入れられています。その後に発行された「新修根上町史」に板津氏の事は更に詳しく述べられています。
 この様に板津氏の歴史は寺井町や根上町の歴史そのものであるという事に鑑み、板津の姓を名乗る一人として、遠き先祖 の業績を振り返り、加賀重友・長野領主板津氏とその末裔達の歴史を「寺井町史」と「新修根上町史」の孫引きを覚悟して 明らかにしましょう。
 板津氏は応仁の乱後には、中山道沿いの美濃や尾張に移住して参りました。この地方での板津氏の歴史は地方史に断片的 に記載されています。このホームページは地方史に断片的に書かれた板津氏の歴史も記載されています。
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