板津氏の歴史概要 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

 今から八三〇年ほど昔、加賀の国・能美郡の荒野(石川県小松市、寺井町、根上町の一部)を開発された情け深い武士が住 んでいました。この武士は村人達から尊敬され、御館(おやかた)様と呼ばれていました。その武士の名は板津成景(しげかげ)と申します。 当時板津成景は地元の人たちに介次郎という愛称で呼ばれていました。介というのは役職で、次郎というのは林氏からの分家の者という意味です。
 板津成景が住んでいた館跡は御館町として今でも小松市に残っています。御館町には成景が建立した八幡神社があります。 この神社は今でも土地の人達の健康と安全を守っております。
 成景の館跡に銭畑という所があり、江戸時代に大量の中国銭が掘り出された事にちなんで名付けられました。土地の人は「今 でも中国銭が見つかりますよ」と申しております。成景は今の今津(板津の地名発祥の地?)を基地にして大陸との貿易を行 っていたのではないでしょうか。
 藤原鎌足公の後胤に、芋粥の説話で有名な藤原利仁(としひと)という征夷大将軍がおられました。利仁将軍は北陸で強大な軍事力と経 済力を持っていました。やがて利仁将軍の子孫が加賀に広く分布するようになりました。利仁将軍の子孫で有名なのが林氏と 富樫氏です。中でも石川郡拝志郷の林氏は早くから頭角を現していました。平安時代の終わり頃、林氏は本流と傍流の二つに 分れました。傍流の林氏は能美郡の三角州の中にある板津邑に移住し、この地方の荒野の開墾を始められました。その二代目 が板津成景で、板津氏の始祖でございます。
 板津成景が歴史上に登場されたのは、まさに源平合戦が始まろうとしていた一一七〇年のことでございます。加賀の武士達 のほとんどは自己の将来を源氏に託して木曾義仲の軍に加わりました。しかし板津成景は加賀の武士達とは異なって、開発し た領地の安堵を考えてか、独自の行動をとり源頼朝の御家人に加わっていました。
 成景の弟に、倉光六郎成澄という人がおりました。彼は豪の者で、倶利伽羅峠の合戦の時、平家方の剛勇でならした妹尾(瀬 尾)兼康を生け捕りに致しました。その後、妹尾は義仲の温情によって、家来の一員に加わっていました。実は妹尾は義仲に 従う振りをしていて、すきがあれば義仲を亡き者にしようと思っていたのです。倉光成澄は妹尾から彼の故郷である西国の様 子を聞いていましたので、そこに新天地を求めようと考えて居ました。成澄はその事を義仲に懇願していました。やがて木曾 義仲は西国遠征に際して先方を倉光成澄に、道案内を妹尾に命じました。妹尾は故郷の近くまで来たとき、歓迎の準備をして 来るからと言って先に行き、待ち伏せして倉光成澄をだまし討ちにしました。こうして成澄はこころざし半ばにして異境の地 に屍を晒すことになったので御座います。まことに哀れと言うものです。
 源平合戦は最終的には源頼朝の勝利に終わり、全国に守護地頭が置かれました。加賀の武士達は木曾義仲の軍に加わったた め、地頭に任命されたものはほとんど居なかったので御座います。こうして加賀の武士達は敗者の悲哀をいやと言うほど嘗め させられたので御座います。ところが板津氏は鎌倉幕府の御家人の一人であったため、加賀の武士としては大変珍しい事です が地頭に任命されたので御座います。
 成景の子、板津景高(かげたか)の時、承久の乱が起こりました。浮上のチャンスを窺っていた加賀の武士達は鎌倉幕府に反旗を掲げて 後鳥羽上皇に加勢しました。しかし、板津景高とその子、家景(いえかげ)は加賀の武士達の行動に反して、鎌倉幕府側につきました。こ のため、家景は本家の林氏によって殺害されてしまったのです。林氏と板津氏は本流と傍流の関係にありながら、承久の乱に際 して同一行動を取ることが出来ず、一族同士で殺し合うという悲しい定めを背負ったので御座います。やがて鎌倉方の大勝利 となり、林氏は捕らえられて鎌倉で処刑されてしまいました。こうして本家の林氏は衰退したのでございます。
 加賀の武士達が衰退してゆく中で、景高はかろうじて家景の長男・長野盛景(もりかげ)に地頭を引き継ぐ事が出来ました。まさに景高 の一生懸命の努力の結果でございます。承久の乱の後、板津氏は姓を長野氏に変え、鎌倉時代を地頭として綿々と生き抜いて 参りました。長野氏から板津氏が再び現れるのは、室町時代になってからの事で御座います。
 鎌倉幕府が滅びますと、加賀の武士達のほとんどが子々孫々受け継いで来た地頭職や領地を後醍醐天皇の新政府によって剥 奪されてしまいました。勿論長野氏も地頭職を没収されてしまいました。しかし長野氏らは実力で旧領地を支配してしまいま した。やがて守護の富樫氏によって実力で排除されたので御座います。この騒動の中で長野氏の中から板津弥藤次入道という 人が現れ、一三八〇年に奪われた土地を取り返そうとその子息達が室町幕府に訴えました。しかし足利氏の一族である吉良氏 の妨害にあい、夢が挫折してしまいました。これを契機に長野(板津)氏は衰退し始めるのです。
 応仁の乱の頃になると板津氏は若狭を経由して近江に移住し、応仁の乱が終わると木曽川沿いの美 濃や尾張に移住して参りました。戦国時代になりますと、板津氏の子孫の中から織田信長の家臣の池田氏、前田氏、堀氏、森 氏等に仕える者が出て参りました。池田氏と前田氏に仕えた子孫は平成の御代まで連綿と系譜を連ねて参りました。こうして 板津氏は美濃や尾張で子孫を増やしながら、二十一世紀を向かえるに至ったのでございます。
 この小冊子は板津氏の今日まで辿ってきた歴史の足跡を公知の文献や家伝にて明らかにして参りたいと思います。それに、 子孫の一人としての著者が、二十世紀と二十一世紀に生き抜いた証を明らかにしたいと思います。
 本書は
「第一章 加賀重友・長野領主とその末裔達」、
「第二章 美濃・尾張に移住した板津氏」、
「第三章 美濃・尾張に移住した板津氏は成景の後胤なり」の三部で構成されています。
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