板津一族の調査 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  この文は筆者・澤潟四郎が2004年10月発行の『家系研究』第38号に投稿した論文です。 文章は「あります」調に変更してあります。また一部は加筆訂正してあります。
  この論文の中に推定年齢が至る所に出てきますが、これは『歴代板津氏当主の生年と卒年の推定』で述べた 最小自乗法による推定年齢です。

  板津氏の事を大々的に調査したのは平野外喜平氏です。氏の研究は「古文書より見た中世寺井町地方の研究・・・・ 第一部 重友、長野村領主板津氏五代とその残影」に詳しく述べられています。この研究成果は寺井町史や新修根上 町史に引き継がれ、更に詳しく記載されました。詳細は前記史料に譲り、ここでは視点を変えて、歴史研究第五〇一 号などの調査事項を加えて述べてみようと思います。

一、板津氏の芽生え
  板津氏は利仁流藤原姓齋藤氏流です。藤原利仁より六代後、齋藤氏は貞家の林氏と家國の富樫氏に別れて行きます。 この林氏が加賀齋藤氏の統領となるのですが、この林氏は林貞光より後、林光家の本流と林成家の庶流に別れて行きます。
  林成家は法皇より主人の命令を重視した武士で、古事談の中の加藤太夫成家として登場しています。林茂家は法皇 により京都を追放されて加賀に戻り、その子成景と共に板津地区の開発に乗り出したものと推定されます。

二、鎌倉時代の板津氏
  成家の子が板津成景で、板津氏の始祖です。成景は平安時代末期の嘉応三年に出された仲原頼貞譲状案という史料 に登場します。この中で成景は頼貞から重友村を譲られ、開発を依頼されます。成景が推定年齢四十九歳の時、源平 合戦が始まりますが、成景は源平合戦には参加していません。恐らく自己の開発した領地を守る事に専念し、源頼朝 の御家人となったものと想われます。
  一方、成家の弟倉光三郎成澄は木曾義仲の軍に加わり、加賀の合戦で平家方の剛の者、備中の瀬尾(妹尾)兼康を 生け捕りにする手柄を立てましたが、後瀬尾のだまし討ちにより異国の地で落命します。
  板津成景にはもう一人の弟・宮永七郎国員がおりました。詳しいことはよく分かりませんが、成澄とともに源平合 戦に参加したと思われます。
  板津成景のあと板津氏は長男の白江景平(白江新介)と次男の板津三郎景高とに別れて行きます。建仁元年の板津 成景譲状案にて、推定年齢六十七歳になった板津成景は自己の開発した領地を長男の白江景平同意の上で江沼三郎 (板津景高)に譲りました。板津景高は最初は江沼三郎と呼ばれていた時代がありましたが、承久の乱の後には長野 景高となったようです。しかし、尊卑分脈では板津景高となっています。
  板津景高ののち板津氏は長男の小三郎家景、次男の二次郎三郎景定、三男の五郎四郎景朝に別れますが、景定や 景朝のことはよく分かりません。
  承久三年に承久の乱が起こりますと、敗者の悲哀を味わっていました林氏は、この機会こそ敗者と勝者の立場を 逆転出来るチャンスと考え、反鎌倉の立場を取りました。ところが林氏の庶流である板津氏は鎌倉方につき、一族 が互いに相争う形となりました。このため、林二郎家綱は板津景高の子板津小三郎家景を血祭りにします。この事は 尊卑分脈にも記載されています。この時の家景の推定年齢は三十歳でした。家景の子盛景はまだ若干六歳頃でしたか ら、景高は後を託すのに迷いがあったのでしょう。七年後の嘉禄二年に板津景高譲状案によって家景の家督は元服を 過ぎた頃の盛景に譲られる事になりました。
  ところがその翌年江沼景能(かげよし)(かげよし)という人物が盛景に譲られた領地は自分のものだと幕府に申し 出ました。早速、幕府は二人に召状を出し、二人の言い分を聞こうとしましたが、どうした訳ですか、江沼景能は出 頭しませんでした。こうして幕府は元の通り盛景に領地を知行させました。
  盛景は老武者となって、病床の身となってしまった弘安二年に、領地を息子の三郎盛能に譲り、更に将来親不孝等 の不都合がない限り孫の弥藤次に譲ることを、病身にむち打ちながら、渾身の力をこめて遺言状をしたためています。 このことは長野盛景譲状案に記載されています。
  盛景の子は盛能ですが、長野盛景譲状案にのみ名が登場するだけですから、盛能の事は全く分かっていません。
  盛能の子が長野弥藤次です。鎌倉時代末期に水利権争いから南禅寺が用水を長野総領地頭に止められたと鎌倉幕府 に訴えました。これによって長野総領地頭は幕府に出頭するよう命令を受けています。時は鎌倉幕府滅亡の五年前で、 世の中は疲弊しきっていましたので、長野総領地頭は多分出頭しなかったでしょう。この時の長野総領地頭は六十歳 の老武者となっていた弥藤次と推察されます。

三、室町時代の板津氏
  後醍醐天皇による新政権は板津氏を始め加賀の武士達から、今まで守ってきたささやかな領地を今までの経緯を考 慮することなく、いとも簡単に召し上げ、重臣や足利方の吉良氏に与えてしまいました。加賀の武士達は領地回復の ため吉良氏と争うことになります。一部の領主は吉良氏より領地を安堵されました。その後の板津氏など旧領主との 激しい抵抗を交わすため、新政権より受け取った領地を石清水八幡宮に譲渡してしまいました。この後、板津氏等は 実力で旧領地を占有するという事態となりました。このため石清水八幡宮は幕府を動かし、更に当時加賀の守護であ った富樫氏を動かし、応安七年に富樫氏の一族英田次郎四郎が実力で板津氏らの占有を排除したと推定されます。 ところが英田次郎四郎の占有排除から十年後の永徳三年の沙弥昌堅挙状によれば板津弥藤次入道子息等は室町幕府に 領地回復の訴えを起こしています。つまり英田次郎四郎の排除にもまだ決着を見ていなかったと思われます。この訴 えは吉良氏の応援もあって、どうやら却下されたようで、ここに至って、板津氏は鎌倉時代から面々と一生懸命に守 ってきた領地を完全に剥奪されてしまいました。実に鎌倉幕府の滅亡から、七十年に及ぶ長い闘争の歴史に終止符を 打ったのであります。
  この事件に関連するのか定かではありませんが、板津九郎が小松城を取り立ったというお話が江戸時代の富田景州 が書いた三州誌記載されています。この事は何時の時代か不明ですので小松城史には記載されていません。
  長野弥藤次とその子息とのつながりを示す史料は残されていませんが、弥藤次の子と推定されるのが藤原頼胤です。 頼胤の名には板津氏歴代の盛・景などの通字がありません。おそらくは弥藤次には男子なく、養子を迎えたのではな いかと推定されます。頼胤は当時の武士達と同様、一族の氏寺としての禅寺経営に乗り出していました。
  禅寺を一族の氏寺とする頼胤の思いはその子の藤原盛家(宗昌)に引き継がれました。特に注目を引くのは、勝楽寺の五段 の田地を長福寺に寄進していることです。この時、寄進者の名は宝徳三年の長福寺寺領目録に板津とあります。藤原 宗昌は正式には藤原、通称は板津という使い分けをしていたのではないでしょうか。なお宗昌の昌がこの後通字にな ったと推察されます。またこの昌は「政」「正」に通じるのではないかと思われます。
  この藤原宗昌と同時期に板津弥藤次入道子息等が室町幕府に領地回復の訴えを出したことは前述した通りです。 板津弥藤次と藤原宗昌とは同一人物ではないかと推定されます。
  この七十年後の嘉吉2年(1442)に長野昌成という人物が田地を長福寺に寄進致しました。また寛政3年(1462)年 の『板津頼家書状』に「よなみつ万福寺」と記載されています。さらに天文9年(1540)若狭の湊の住人板津清兵衛が 高柳村より流れてきた御神体を拾い上げ正智院(三国神社伝承)に納めたとあります。その後、板津氏に関する史料 は加賀では江戸初期まで発見されていません。

四、室町末期に移住した板津氏
  板津氏は文明十七年六月に近江を経由して美濃に移住したと伝承されています。ちょうどこの頃は将軍家の内紛が 絶えない時期でもありました。確証はありませんが、倉光氏と同様将軍の奉公衆の時代があって、それで近江に一時 的に居住したり、移住後内紛にかり出されたのかも知れません。
  移住先としては現在の蛭川村田原と加茂郡富加村滝田、美濃加茂市万場です。そのほかに尾張楽田があり移住先は 合計四カ所です。
  永正七年に板津成景の子孫定慮が蛭川村に移住したと伝えています。定慮の子藤原朝臣板津若狭守貞久は長享元年 に白山神社を建立したと棟札に記載されています。この一族は当地の親王伝説に出てきます。宗良親王が、この東濃 へ足を運ばれたときの従者を四家といい、今村・不破・板津・林の四家としました。また七党は藤原茂成・和田政忠 ・小池彌藤太・曾我幸保・纐纈義弘・逸見十郎朝貞・二階堂政高です。(蛭川史跡伝説集)
  滝田の板津氏は伝承によれば板津政継親子四人で移住したと伝えています。長男政吉は三本木(滝田内)に、次男 政次は万場に定着したと伝えています。また娘についての確証は有りませんが楽田の県神社神主重松氏に嫁いで、 楽田板津氏の祖板津正平を生むに至ったのだと推定しています。

五、戦国時代の板津氏
  戦国時代の板津氏については断片的なことしかわかっていません。
  滝田に移住した板津政吉の長男・板津兵右衛門は享禄三年(一五三〇)に猿啄城を築城し城主となった土岐頼吉 (田原左衛門尉頼吉)の軍師となり、天文元年(一五三二)の頃、福地太郎右衛門等と共に斉藤八郎左衛門俊直 (利直)のこもる小野山城を攻めて比類なき働きをします。この時に
     小野山に 歴々人が集まれど
     板津兵衛に勝る者無し
という狂歌が残されています。
  なおこの小野山城は天文二十三年(一五五四)年に陥落したとか、享禄元年(一五二八)年に陥落したという記録 があって、本当の陥落年代ははっきりしていません。
  この戦を境に兵衛は板津外記尉政光と改名し、郷里の滝田に戻り、虚空蔵大権現を建立しました。この虚空蔵大権 現は後に板津氏の氏神としてあがめられました。また共に戦った福地太郎右衛門は現在の美濃加茂市市橋に戻って帰 農したと言われています。兵衛は天文十八年卒去しますが、導師は天猷和尚でした。この和尚はのち長久手の戦いで 戦死した池田信輝、白江庄右衛門の導師を務める竜福寺の高僧です。
  時代は少し下って、美濃では信長の美濃攻めが開始されていました。板津一族に関連する事柄として、堂洞合戦と いうのがあります。美濃の滝田の隣村に当時信長方にあった佐藤紀伊守が城主をしていた加治田城がありました。 佐藤紀伊守の家臣に白江庄右衛門という豪の者がいました。何故板津氏の一族の白江氏が加治田に居たのかは分かり ませんが、恐らく白江氏も板津氏と共に美濃に移住したのでしょう。この白江庄右衛門は堂洞合戦では一方の侍大将 として活躍致します。この合戦で佐藤紀伊守は子息の佐藤右近右衛門をなくしましたので、信長の家臣齋藤新五を婿 養子に迎え、隠居してしまいました。この齋藤新五は、郡上や加賀などに進軍するなど活発な行動で信長に仕えてい ましたが、本能寺の変で討ち死にしています。齋藤新五ののち加治田城は叔父の齋藤玄蕃頭に預けられます。このの ち加治田城は森氏の侵略を何度も受ける事になります。白江庄右衛門は森氏の剛の者真屋新介を討ち取り、齋藤玄蕃 頭より行光の脇差しと感状を授けられます。暫くして、齋藤玄蕃頭は病死し、加治田城は統率がとれなくなります。 白江庄右衛門らの家臣達の多くは森氏に仕官する事になります。森氏に仕官した白江庄右衛門は長久手の合戦にて 家康の軍勢と華々しく戦い、主人森武蔵守長可(ながよし)(ながよし)と池田信輝とともに戦死してしまいます。 戦後白江庄右衛門及び池田信輝の遺体は加治田の大山齢峯寺に運ばれ、竜福寺の高僧天猷和尚によって弔われてい ます。今でも竜福寺に白江庄右衛門と池田信輝の位牌が残されているものと思われます。
  白江氏の子孫は現在美濃にはおりません。白江庄右衛門には子供が居なかったのでしょうか、或いはその子らは、 森軍団とは異なる主に仕官した事も考えられます。この点については更なる調査が必要ですが、秀吉並びにその弟に 仕官した白江休悦が該当するのかもしれません。
  板津正平の孫と推定される板津善右衛門藤原休トは永禄年中に池田信輝の家臣となりました。善右衛門はのち 犬山城攻めの時、日置猪右衛門の配下に属すことになり、以後日置氏の家老職を務めることになります。主人池田 信輝は長久手の合戦で戦死致しますが、この時善右衛門が合戦に加わったのかは分かりません。長久手合戦の後善 右衛門は池田信輝の子池田輝政に仕え、後備前金川に移住致します。なお善右衛門の用いた家紋は違い鷹羽であり、 この紋は現在犬山・各務原・美濃加茂市今泉の板津氏が使用しています。なぜか楽田の板津氏の家紋とは異なって います。
  時代は更に下って、関ヶ原・大阪夏の陣あたりの板津氏はどうなっていたのでしょう。このあたりの記録も大変 少なく断片的ですが、森氏が大阪夏の陣に出陣するとき、板津庄五郎(勝五郎ともいう)と板津市左衛門という 二人の板津氏が見られます。残念ながら、白江氏の姿はありません。この戦で二人の板津氏は配下の者を従えそれ ぞれ敵の頸一つをあげたと記録されています。板津庄五郎は太閤検地の実施に当たり備前の検地帳に記され、また 森氏が上杉氏と戦ったときに手柄を立てたそうですが、大阪夏の陣以降、この二人とその子孫達の消息は不明です。
  先に述べた善右衛門の子、板津伊織介定秀とその弟の喜太郎もこれらの戦に参加しましたと家伝書に伝えていま す。次項で述べる了甫の子直頼も参陣したと伝えています。

六、徳川時代の板津氏
  徳川時代の板津氏の伝承も極めて少ないですが、これには加賀の前田家に仕えた板津氏、それに備前の池田氏に 仕えた板津氏、それに農民となった滝田の板津氏、蛭川村の板津氏 が若干の伝承を残しています。
  まず加賀前田家に仕えた板津氏について述べましょう。加賀藩の二代目前田利長に仕えたのが板津了甫という連歌 師です。彼は始め大聖寺藩の堀久太郎に仕えていましたが、白山に居たとき呼び出されて仕官しました。この一族の 家紋は三つ鱗であり、美濃に移住した板津氏も三つ鱗であることから、両者は同系の一族である事は間違いありませ ん。この板津氏は代々加賀に居住していたのか、それとも文明時代に美濃に移住した板津氏の一族が織田軍団の加賀 入りで、再入国したのか定かではありません。もしこの板津氏が代々加賀に居住していたとすれば、板津氏が美濃に 移住した時、残留した一族があった事になります。
  了甫の嫡子が左兵衛直昭、次男が盲目の連歌師正的検校です。正的は主人前田綱紀の武運長久を願い、白山神社に 連歌百撰を奉納しています。また正的筆記という一遍の軍略書を残しています。了甫の三男が八兵衛直明です。 この一族は最終的に三家族に別れ、子孫繁栄かと思われたのですが、三家とも四代目にして、子孫なく絶家してしま います。こうして加賀から板津氏は悉く消滅してしまう訳です。
  しかし、加賀藩から富山藩が分離した時、前記左兵衛直昭の子板津直清が富山藩に仕官する事になりました。この 板津氏は徳川時代を乗り切り、明治になってから、東京へと移住致しました。今日多くの御子孫達が関東エリアで活 躍されています。この一族は代々直という通字を名前に使っている事が特徴です。
  加賀藩には長野姓の人も仕官していますが、詳しいことはよくわかりません。
  備前藩の板津氏は板津善右衛門の子孫です。この板津氏は代々金川に居住し、池田氏の家老日置氏の家老職を努め てまいりました。この板津氏の特筆すべき出来事として神戸事件というのがあります。時は明治政府が誕生するほん の直前に備前藩の隊列を横切った外国人があり、それを制止したことから小競り合いとなって、最終的に列強五カ国 に占領されてしまう出来事でした。
  次に農民となった滝田板津氏の歴史を紹介しましょう。板津氏は代々庄屋職を務めていました。庄屋の最大の務 めは毎年年貢を江戸の浅草にとどける事です。船に納米を積み込み、長良川を下って、桑名まで行き、ここで千石船 に積み替えて、桑名から浅草まで運ぶわけです。途中雨に降られて、納米が水浸しにならないように管理したり、風 が吹いて、納米が崩れないように管理するという大変な努力をして、浅草まで運ぶわけです。浅草では水に濡れた米 を取り除いて、きちんと指定された量の米を納めて一件落着という訳です。
  浅草に納米して、美濃まで帰ってくる時の手形が残っていています。大役を果たし、帰路馬に乗って意気揚々と 中山道の周辺に繰り広げられる景色を眺めながら帰ってくる庄屋板津宇兵衛治の姿がありありと忍ばれます。
  最後に蛭川村の板津氏について述べましょう。特に興味があるのは、この一族の系図の中に丸橋忠也とともに江戸 幕府を震撼させた由井正雪がいることです。この地方は南朝神話の多いところで、正雪も縁者を訪ねてこの地に何度 も足を運んだのでしょう。南朝神社の傍らに石造りの堂があってそこに彼の霊がまつられているそうです。
  なおこの他に横浜市仏向町に多くの板津氏が居住しています。西暦1600年頃美濃または尾張から移住したと言われ ています。家紋が丸に澤潟ですから、滝田板津氏の一族かもしれません。

七、まとめ
  板津の歴史は比較的鎌倉時代はよく調査されていますが、室町も末期以降になると関連資料は非常に少なくなって きます。特に帰農した農民系の板津氏については記録さえも残されていない家が多いのです。最後に簡単な推定系図 を示しましょう。
推定系図

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