能美領主板津一族の六つの謎解き Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  この文は筆者・澤潟四郎が実名で平成15年2月号の『歴史研究』に投稿した論 文です。文章は「あります」調に変更してあります。また一部は加筆訂正してあります。
  鎌倉時代の初頭、巨人からニューヨーク・ジャイアンツに移籍した松井選手の出身地、石川県根上町の開発に関わったのが板津氏だが、始祖成景以後、 子孫は板津氏、白江氏、長野氏等に分かれます。

まえがき
  加賀能美郡長野・重友の領主板津一族については、多くの歴史家によって解明され、石川県の『寺井町史』や『根 上町史』等にその内容が詳しく記載されています。またインターネット上でも〔中世加賀の群像〕として紹介されて います。しかし、未だ解明されていない部分も残されています。
  本稿では石清水八幡宮等の史料から、板津一族の生年と卒年を統計的な最小二乗法によって推定する方法をまず紹 介します。この結果の知見をもとに板津一族に関して今まで曖昧となっていた事柄、例えば事件当時の領主の年齢や 領主名、行動、登場人物間の関係等を明らかにします。
  筆者の専門は末尾の自己紹介に記載したように科学分野であり、歴史の専門家ではありません。したがって筆者の 考え方に対して、歴史の専門家からみれば必ずしもご賛同願えないかも知れませんが、中世加賀能美郡の歴史に新風 を吹き込む覚悟で本稿を投稿した次第です。

一.板津一族の概要と史料
  板津一族の始祖は藤原鎌足を始祖と仰ぐ藤原利仁の後胤、板津成景です。板津成景は治承三年(一一七九)の仲原 頼貞譲状案の中で介次郎として始めて登場します。その後、文治二年(一一八六)の源頼朝下文案の中に登場し、建 仁元年(一二〇一)の板津成景譲状案を残しています。
  二代目は成景の次男長野(板津三郎)景高です。景高は建仁元年の板津成景譲状案で江沼三郎として初見します。長男 長野(板津小三郎)家景が承久三年(一二二一)の乱で林二郎家綱に討たれたため、嘉禄二年(一二二六)に、長野景高譲状案の中 で景高は孫の長野盛景に領地長野重友を相伝しています。
  三代目は長野(板津小三郎)家景です。家景は承久三年の乱ではいち早く鎌倉方につき、上皇方についた本流の林二 郎家綱に討たれています。一族間で鮮血をみたこの事件は加賀で衝撃的な事件として広く流布し、加賀の武士達はほ ぼ上皇方に染まったと思われます。なお家景が林二郎家綱に討たれた事は『尊卑分脈』にも記録されています。
  四代目は長野盛景です。嘉禄二年(一二二六)の長野景高譲状案で景高の孫として初見します。その後江沼景能と の間で所領争いが生じました。そのことは安貞二年(一二二八)の北条朝時召状で明らかです。
  弘安二年(一二七九)に、盛景は老いの身を振り絞って、長野盛景譲状案を書いています。この譲状案で、盛能に 領地を譲り、不都合なことがない限り子盛能に譲渡した領地を将来孫の弥藤次に譲ることを遺言しています。
  五代目は長野盛能で、弘安二年(一二七九)の長野盛景譲状案に初見します。
  六代目は弥藤次で弘安二年(一二七九)の長野盛景譲状案で盛景の孫として初見します。その後長野惣領地頭が嘉 暦二年(一三二七)の南禅寺文書に出てきます。
  七代目の親子関係を示す史料は残されていません。しかし七代目と考えられそうな人物として藤原頼胤がいました。 頼胤は延文五年(一三六〇)の頼胤・藤原盛家連署寄進状で初見します。そして貞治元年(一三六二)の藤原盛家勝 楽寺別当職寄進状を最後としています。
  八代目と考えられるのが頼胤の子、藤原盛家で、延文五年(一三六〇)の頼胤・藤原盛家連署寄進状で初見します。 盛家は後に宗昌と名乗り貞治四年(一三六五)の藤原盛家田地売券に見られ、永和三年(一三七七)には藤原盛家田 地寄進状で五段の田地を長福寺に寄進した事が最後となっています。
  ここで特に興味あるのは五段の田地の寄進者が永享五年(一四三三)の長福寺寺領目録に板津である事が記載され ていることです。つまり宗昌は板津姓であった可能性が高いのです。
  その後永徳三年(一三八三)の沙弥昌堅挙状案に長野左近将監板津弥藤次入道子息等が見えます。したがって板津 弥次と藤原宗昌との関係がここで注目されます。
  以上が板津一族の概要ですが、この他の一族として宝徳三年(一四五一)に宗昌ゆかりの人物と考えられる長野昌 成がいましたが、宗昌以降昌成まで約七十年の間隔があり、この間の史料が欠落していて、現時点では一族間の繋が りを究明することは難しいです。

二.最小二乗法による板津一族の生年推定
  第一項に列挙した史料の発行年(西暦に換算)より、最小二乗法による各世代の生年と卒年を推定する方法を開示 します。最小二乗法とは早い話が縦軸(Y軸)に西暦を、横軸(X軸)には代数を方眼紙上にとり、各々の代数の仮定 値をプロットして、各プロット群の中心を通るような直線を引き、その直線の一次方程式を求めるのと同じで、これ を数学的に処理するものです。このため若干の仮定が必要となります。
  第一の仮定は生年と世代数との関係が一次方程式で表されるという事です。
  第二の仮定は卒年と世代数との関係もまた一次方程式で表されるという事です。
  第三の仮定は第一、第二の仮定で表される一次方程式の勾配、つまり世代間隔はいずれも同じであるという事です。
  以上が世代数と生年・卒年の一次方程式についての仮定です。これにより一次方程式の形は式一(生年)、式二(卒 年)の二つで示されます。
  次は生年と卒年の仮定値(概略数値)を決めることです。これには生年と卒年に対して次のような仮定をもうけます。
  1.成年として初見された時を三十五歳とします。
  2.老人時代の最後の記録から、次の記録の中間を卒年とします。
    あるいは老人時代の最後の記録から十年後を卒年とします。
    二つの数値が現れた場合には小さい方の数値を卒年とします。
  3.孫として初見された時を十五歳とします。
    このような仮定により、板津成景を初代とし弥藤次まで、代数をX、生年及び卒年をY(西暦)とし、式一、式二 に代数及び生年と卒年の仮定値をあてはめ、最小二乗法によってa、b、cを求めます。そして、最も確からしい生年 と卒年の式三、式四を得ます。
  ±後の数値はシグマ(分散値)を表しています。なお最小二乗法の具体的な手法は統計学等の専門書を参照してください。
  最小二乗法の結果より生年は式三により求めます。一シグマの誤差範囲では七〇パーセントの確かさがあり、二 シグマの誤差では九六パーセントの確かさがあります。卒年についてはバラツキが大きく、2.項による仮定値をその まま卒年とした方が良いでしょう。卒年の仮定値が求められない場合は式四を使うしか手はありません。この表から 卒年の仮定値から生年計算値を引くことにより各世代当主の死亡年齢が推定できます。林二郎家綱に討たれた家景を 除き意外と長寿命であった事が窺い知れます。
一次方程式の形
生年  Y=aX+b  式一
卒年  Y=cX+d  式二
最小自乗法による結果
生年  Y=26.19X+1109.33±3.22   式三
卒年  Y=26.19X+1173.19±17.68  式四

氏  名
生  年
計算値
仮 定 値 卒時推定
年  齢
生  年 卒  年
成  景 1136 1135 1211 75
景  高 1162 1166 1227 66
家  景 1188 1186 1221 33
盛  景 1214 1211 1289 75
盛  能 1240 1244
弥藤次 1266 1264 1337 71
頼  胤 1363
宗  昌 1325 1387

  生年や卒年が確認されている家系から求めたシグマは今回の結果と殆ど同じである事が確かめられていますが、本 稿ではこの詳細を省略します。したがって式三、式四の関係式はかなり信頼性があると思われます。これから親子関 係の確証のないものについても、それらの関係を推定することができます。さらにこの推定から新たな歴史上の発見 に気づきます。

三.江沼景能(かげよし)は一体何者か
  景高の長野保と重友の一括相続に対して、江招景能は、安貞元年(一二二七)十月譲状を持っていると偽って横領 しようとしました。長野盛景は早速これを守護北条朝時に訴え、北条朝時は両者に出頭を命じましたが、何故か江沼 景能は出頭しませんでした。翌安貞二年(一二二八)八月十七日、朝時は長野盛景の訴えを認め、重友村を前のよう に知行させました。さて江招景能はどんな人物で、何故出頭しなかったのでしょう。
  『根上町史』では江沼景能は長野盛景の従兄弟としています。そうなりますと、景高がかつて江沼姓を名乗って いましたから、『尊卑分脈』にみられる伯父の景朝、景定の子ということになります。しかし事件の起こった安貞元 年(一二二七)には、長野盛景は式三から十三歳と計算されます。一シグマ程度上にずれたとしても十六歳です。従 兄弟は盛景よりもさらに若年であると考えられますから、従兄弟の江沼景能が横領しょうとするには少し若すぎるの ではないでしょうか。それにこの時期に生存していてもおかしくない、伯父達がこの事件に関係していないようです から、はたして従兄弟間で争いが起こったのか疑問です。
  盛景への譲渡が決まったのは承久の乱後、六年も経過しています。承久の乱当時には盛景が幼年であったために、 成長を待ってから景高が譲渡したのではないでしょうか。
  歴史家の間では江沼三郎は長野(板津)景高と同一人物と考えられています。ところが『寺井町史』を書いた平野 外喜平氏は板津系図に存在しない景高とは別人の江沼三郎の子孫と長野盛景との争いとしています。しかし、板津一 族の領地は重友と長野のわずか二村です。最初の頃は重友村一村だけでしたので、景高をさしおいて『尊卑分脈』に も記載されていない江沼三郎に重友村を譲渡する理由が見あたりません。それに知行していた村をかすめ取られたな ら、江沼景能が真っ先に出頭しても良いですのに、北条朝時の再三の出頭命令に従わない理由もありません。
  当時江沼の姓を名乗った一族が存在していたのか疑問です。何故ならば二代目の景高は最初は江沼姓でしたが、重 友の領主になってからは板津姓あるいは長野姓であったでしょう。この時、景高の嫡子家景は十三歳と計算され、そ の弟達即ち長野盛景の伯父達はもっと若年でしたから、彼らが江沼姓を名乗る根拠はないように思います。さらに、 今日の電話帳による調査よれば江沼姓は石川県とその周辺地域に見あたりません。
  そこで『根上町史』や『寺井町史』とは異なった見解を考えねばならないでしょう。重友が景高に相伝されてから 三十年もたてば、一族外の第三者から見た場合、果たして江沼三郎を長野景高と充分理解していたか疑問です。そう なると景高に相伝された経緯を良く知った人物が、景高の死後、歴史の風化を利用して江沼の子孫と称してかすめ取 ろうとしたことが考えられます。しかし若年にもかかわらず長野盛景がやり手であったため、勝算なしとしてすごす ごと手を引いたのではないかと思います。

四.長野惣領地頭は誰か
  嘉暦二年(一三二八)に南禅寺が長野惣領地頭と水利権争いした時、長野弥藤次の年齢は六十二歳と計算されます から、長野惣領地頭が長野弥藤次であった可能性が高いです。
  『寺井町史』では長野惣領地頭として六十歳代の長野弥藤次を考えています。私の推定値に極めて近いです。これ に対して『根上町史』では盛能あるいは弥藤次であるとして幅をもたせています。盛能はこの時八十六歳と計算され るから死亡していたか、あるいは生きていたとしても既に家督は弥藤次に譲っていたでしょう。したがって長野惣領 地頭は弥藤次とすべきでしょう。

五.藤原頼胤は長野弥藤次の子か
  藤原頼胤と長野弥藤次の関係を示す史料は見つかっていません。これについて平野外喜平氏は断定はしていません が、藤原頼胤を長野弥藤次の子と考えられていたようです。
  藤原頼胤は貞治元年(一三六二)の史料には老武者として生きていましたが、貞治四年(一三六五)の史料にその 名はなく、おそらくこの間に死亡したのでしょう。中間をとって、一三六三年としますと、この年は前記関係式から 計算された長野弥藤次の子の死亡推定年(一三五七)に極めて近いです。このことから、頼胤を長野弥藤次の子と考 える事が可能です。ただし頼胤は一族の名とは少々異なっていますので、養子と言うことも考えられます。 (我が家の家伝書では、鎌倉末期に北条**が板津氏の娘をめとり、板津姓を唱えたとの伝承があります)

六.板津弥藤次は長野弥藤次の孫か
  弥藤次の名が共通しますから、板津弥藤次は長野弥藤次の子孫と考えられます。なお長野弥藤次は加能古文書や 『寺井町史』では長野弥藤太とありますが、『菊大路家古文書』や『根上町史』では長野弥藤次とあり、長野弥藤太 は読み違いと考えられます。長野左近将監板津弥藤次入道子息等の名が歴史上初めて登場したのは永徳三年(一三八 三)です。子息等とあることから、この時、弥藤次は故人となっていたか、あるいは相当の老齢であったと推定されます。
  少し本論からずれますが、もともと重友などは板津一族の領地でした。しかし建武新政府は、過去のいきさつを十 分調査しないまま、鎌倉幕府に安堵された領地は無効として板津一族の領地を召し上げてしまいます。これに対して 板津一族は旧領地を実力で占有していたようで、応安七年(一三七四)には加賀守護富樫昌家がその信頼する重臣英 田次郎四郎に占有を解くよう命じています。その十年後の永徳三年(一三八三)になって長野左近将監板津弥藤次入 道子息等が失地回復を目的に幕府に訴えています。つまり失地回復の動きは鎌倉幕府滅亡(一三三二)から永徳三年 (一三八三)まで実に約五十年間にもまたがっていたことになります。したがって、この動きは少なくとも二世代に わたって繰り広げられてきたのでしょう。そのため板津弥藤次が死亡したかあるいは老齢となりましたので、弥藤次 からその子息等に、役目が引き継がれ、長野左近将監板津弥藤次入道子息等と記録されたのでしょう。
  板津弥藤次の卒年が、永徳三年(一三八三)近傍であるとすれば、前記関係式から導き出された長野弥藤次の孫の 卒年(一三八三)と一致します。従って、板津弥藤次を長野弥藤次の孫と考える事に年代的矛盾はありません。

七.板津弥藤次と藤原宗昌(盛家)との関係
  大禅寺の壁峯に帰依した藤原盛家は宗昌と名を変え、貞治四年(一三六五)田中寺(勝楽寺)敷地の田地五段を長 福寺に売却しました。そして永和三年(一三七七)に、かつて長福寺に売却した別当職田五段を改めて長福寺に寄進 しました。この長福寺の五段は寄進者が板津として、永享五年(一四三三)の長福寺寺領目録に見えています。これ から藤原宗昌は板津姓であったと考えられます。また先の卒年の計算から、宗昌の卒年は2.の仮定により永和三年か ら十年後の一三八七年となります。これは、先の関係式から計算した長野弥藤次の孫の卒年(一三八三)に極めて近 い値となります。
  すなわち板津姓と考えられる藤原宗昌も板津弥藤次も長野弥藤次の孫という関係になっています。余談ですが板津 氏は応仁の乱後の文明年間末期一四八〇年頃に中山道と木曽川が接した領域(今の犬山市、美濃加茂市、富加町、蛭 川村)に移住してきました。その時の家族数は三家族程度という事が分かっています。この事から板津弥藤次の時代 板津姓の家族数はおそらく弥藤次一家しかなかったように思われます。それに板津一族は長らく長野姓を使用してき ており、板津弥藤次が板津成景以後再び板津姓を唱えた人物と考えられます。このような事から藤原盛家が板津弥藤 次であった可能性が高いように思われます。

八.板津姓のなぞ
  歴史上板津姓であったのは源氏政権時代にのみ見られます。始祖板津成景がそれです。しかし北条政権時代(承久 の乱以後)は一貫して長野姓を唱えていました。ところが足利政権初頭に長野左近将監板津弥藤次入道子息等が現れ ています。また足利政権末期に編纂された『尊卑分脈』にも長野氏ではなく板津氏として記録されています。史料は ありませんが、このことから長野氏の一部は姓を板津氏に戻したのではないでしょうか。その理由を次に推定して示 しましょう。
  建武新政権下では、北条政権によって安堵された領地は敵方のものとして没収されました。そこで長野氏は失地回 復を有利にするため、「失地回復する領地は最初頼朝時代に安堵されたもので、北条政権下では単なる通過点に過ぎ ない、それに足利幕府発足に当たって、我々はそれなりの貢献をした」、と胸を張って主張するためにも、北条政権 下の長野姓を一新して源氏政権時代の板津姓へと改めたのではないでしょうか。
  なお本稿では長野左近将監板津弥藤次入道子息等と記しましたが、他書では長野左近将監・板津弥藤次入道子息等 とあり、両者は表記が異なっています。筆者は長野の左近将監である板津弥藤次入道という一人の人物を考えています。

九.結び
  最小二乗法を用いた生年と卒年の推定から、板津一族の関係を大胆に述べましたが、これはあくまでも推論であっ て、事実とは必ずしも一致していないかも知れません。しかし現代人が過去の人物と直接向かい合うことが出来ない 訳ですから、歴史というのはあくまでも推定であり、その推定がどの程度正しいかという事は、どれだけの科学的根 拠や論理性があるかという事によって決まると思います。最近古代史の領域で歴史の捏造事件が起きましたが、もし 科学的なメスが入っていれば防げたように思います。したがって科学的手法を生年と卒年の推定に採用したことはそ れなりに意味があると思います。なお成景から頼胤、宗昌までの範囲で生年と卒年を計算すると次の関係式が得られます。
 生年計算式 Y=26.92X+1107.20± 3.59 (分散値) 式五
 卒年計算式 Y=26.92X+1171.51±14.49 (分散値) 式六
二つの式は先に示した式三、式四と比較しても大きな差異は見あたりません。この式より頼胤、宗昌の生存期間と死 亡時年齢はそれぞれ(一二九六〜一三六三、六十七歳)、(一三二三〜一三八七、六十四歳)となります。なおこれ らの関係式は宗昌以降についても外挿して用いる事は十分可能です。もし長野昌成が宗昌の子孫であるならば、昌成 は宗昌の曾孫の代という事になります。

 【参考史料】
 『古文書より見た中世寺井町地方史』
    (第一部重友・長野村領主、板津氏五代とその残影) 平野外喜平著
 『寺井町史』寺井町史編纂委員全編
 『根上町史』新修根上町史編纂専門委員全編
 『板津一族』日本家系協会編
 『中世加賀の群像』

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