もう一つの富加道 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  この文は筆者・澤潟四郎が実名で平成15年6月号の『歴史研究』に投稿した論文です。文章は「あります」調に変 更してあります。また一部は加筆訂正してあります。
  論文に入る前に私がどんな思いで投稿したかを説明した上で、投稿論文を紹介いたします。
  論理の展開が厳密な科学の領域においてすら、その論文の内容には真実でないものが50%もあると言われています。
  事実、報告された論文の内容をトレースしてみますと、再現しないものがある事を、何度も経験しました。
  歴史は科学と比べて再現実験が不可能であり、科学的な検証も十分には施されていない様に思います。つまり、歴 史的出来事として記録されているものが史実であるという事は科学と比べて更に低いのです。従って歴史の記録は史実 と史実でないものが含まれているという事です。従って、偽書であるとか偽書でないといった議論は根本的には間違 いでしょう。つまり従来、偽書のレッテルを貼られた古文書にも史実は十分存在します。火のないところに、煙は立 たぬという理屈です。歴史を正しく見つめる為には、どの部分が史実で、どの部分が史実でないかという事を判断す る必要があります。歴史史料全体を偽書とするという事は厳に慎むべきでしょう。しかし、残念ながら、歴史の分野 では史料全体を偽書として葬り去る傾向があるように思われます。
  偽書と史実のテーマは歴史を極める為には大変重要なテーマであり、200字程度の文章で論じることは大変難しいで す。そのせいか昭和15年3月号の『歴史研究』特集では古事記が偽書としてレッテルをはられていましたが、しかしそ の論旨を拝見しますと、論理性に今一歩のつっこみがなく、抽象的というか主観的というか、さしたる根拠もなく偽 書のレッテルを貼られているように思います。
  ただ一つ救いだったのは、「武功夜話」が昭和29年以降に作られたものではない、という特別研究がありました。 これだけの紙面を費やせば、作者の意図する論旨を十分展開することが出来ました。結論的に百%論旨を信用するわ けにはいきませんが、「武功夜話」は昭和29年以降に作られたものではないと考えざるを得ません。
  ただこの特別研究に接し、筆者は二つの疑問点が脳裏を掠めました。一つは、「武功夜話」が昭和29年以降に書か れたものではないということを、何故科学的に証明されていないかです。今日、わずかな血液で人間の遺伝子を解析 でき、親子関係を証明できるような時代です。該当する「武功夜話」がいつ頃書かれたかと言うことは、年代測定技 術で比較的簡単に判明させる事が出来ます。昭和29年の書籍と「武功夜話」とについて放射性炭素の比較を行えば良 いのです。これで科学的に「武功夜話」の偽書問題は簡単に判定されます。言葉尻をとらえて、偽書である、偽書 でないといった議論を発する前に科学的に判断できないかどうかを考えるべきでしょう。
  第二の疑問は富加という用語です。特別研究の作者は名神道などの例をあげ、この地名はこの地方で使われてきた ような論旨を展開されていますが、これは正しくありません。作者の推論です。私の父は富加町の中心をなす滝田と いう所の出身であり、先祖の墓もあり、時々私も訪ねる町です。そんな関係もあり、私の手元には富加町史(史料編、 通史編)があります。富加町史通史編四百五十頁に依って富加道なる呼び方が戦国時代にあったのかどうか考察して みましょう。(加筆された前文はここで終了)

  平成15年3月号の『歴史研究』の特別研究に、墨俣一夜城と『武功夜話』偽書説が掲載されました。『武功夜話』 には富加道なる記載があり、富加という町名は昭和二十九年に富田村と加治田村とが合併されて出来たのですから、 『武功夜話』は昭和二十九年以降に作られた偽書と従来されていたようです。
  これに対して、特別研究の牛田義文氏はこれを否定するいくつかの根拠を提示され、決して偽書ではないと主張さ れました。著者の論理はさすがと感心し、私自身も決して『武功夜話』は偽書ではないと思います。火のない所に煙 は立たないわけですから、従来偽書と言われたものの中にも、史実は必ず存在するという考えを私は持っています。 ただ、富加道に対する牛田義文氏のご見解に対し、私は別の見解を持っていますので、ここに紹介しようと思います。
  牛田義文氏は名神道などの例をあげ、富加道なる用語から富田と加治田の間の道を、この地方では昔から使われて きたような論旨を展開されていますが、これは正しくないと考えています。
  私の父は富加町の中心をなす滝田という所の出身であり、先祖の墓もあり、時々私も訪ねる町であります。そんな 関係もあり、私は富加町の歴史には多少興味があり、私の手元には『富加町史』(史料編、通史編)があります。そ こで『富加町史』(通史編)四百五十頁に依って富加道なる呼び方が戦国時代にあったのかどうかを考察してみたい と思います。
  富加という地名は昭和二十九年七月一日に富田村と加治田村とが合併して出来た地名です。この富田村は明治三十 年四月一日に滝田村を中心に滝田村・高畑村・羽生村・大山村・夕田村の五村が合併して出来た地名です。富田村と いう命名はかつてこの地が富田郷といわれた故事にならって付けられたといいます。しかしこの富田という地名が現 在の富加町領域内で、戦国時代以降明白に使用されていたという記事は、『富加町史』には残念ながら見あたりません。
  また富田村の中心をなすのが滝田村であり、滝田村と加治田村とは目と鼻の先の隣り合った村であります。両村を 挟む道路を富加道と呼ばれた形跡も『富加町史』には見あたりません。滝田村の名が史料に登場するのは太閤検地の 時以降です。戦国時代にも使われていたと考えて良いと思います。
  加治田村にはかつて此処に堂洞城があり、ここで戦国時代堂洞合戦が行われました。言い伝えですが、滝田村の井 高という所に弥勒寺という大きな寺があり、これが堂洞合戦で消失したと言います。堂洞合戦の約百年後、私の一族 のものが、此処にかって弥勒寺があったことを記す石碑を建て、今も残っています。要するに堂洞合戦では加治田は もとより滝田の一部も戦渦に巻き込まれたと想像されます。ひょっとしたら滝田と富田の読み違いかとも考えました が、字の形から、それも該当しないようです。
  以上ご説明したように富加町の前身である富田村と加治田村との間に富加道なる道路が存在していたとは信じられ ません。それでは戦国時代に富加道なるものが存在していなかったかとなりますと、今後の調査を待たなければ結論 づけられないと思います。
  何故なら富加道の存在を否定する根拠は昭和二十九年以降の目で歴史を見ているからです。歴史を正しく見るため には、『武功夜話』の舞台となった戦国時代の目で歴史を見る事だろうと私は思うのです。
  『新撰美濃志』によると加治田村の隣村である大野村(富野)(現在は関市の中にある)を富田荘と呼んだと『富 加町史』(通史編)百七十三貢に書かれています。堂洞合戦は関と加治田勢との合戦が原因であります。『武功夜 話』に出てくる富田とか富加道というのは現在の富加の前身である富田村には全く関係がなく、加治田の北にある関 市の大野に関係する地名ではないかと考えられます。こうすれば、当時の富田(大野)と加治田との間に通じる道を 富加道としたと考えれば良いわけです。このことが成立すればもう、富加道なるものが昭和二十九年以降の造語であ るが如き議論は根拠を失うわけです。

追記:この紹介文を見た牛田義文氏は、後に「墨俣一夜城」なる書籍を発行され、この紹介文を引用されています。
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