神戸事件 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  この文は筆者・澤潟四郎が実名で平成15年10月号の『歴史研究』に投稿した論 文です。文章は「あります」調に変更してあります。また一部は加筆訂正してあります。
  明治維新がまさに明けようとしていた時、外人が備前藩の隊列を横切ることで大騒ぎとなった日本の歴史的な事件 が神戸で起こりました。いわゆる神戸事件です。神戸事件は、長い間攘夷を以て国の方針として拝外運動に徹してい た田舎部隊が、初めて外人に接して起こった対外問題でした。
  慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜は大政奉還を奏上し翌日許可されましたが、物情騒然として伏見鳥羽 戦争に発展し、幕府側の軍隊はなだれを打って阪神方面に殺到しました。
  明治維新直前の慶応四年(一八六八)一月四日、日置忠尚率いる岡山部隊の先発隊・備前藩兵四百五十人は朝廷の 命により一宮警備の命を受け、西国街道を東に向かっていました。一月十一日、隊列が神戸の三宮神社前にさしかか った時、外人が隊列を横切ったことで神戸事件は起きました。
  古来、武士の隊列を横切ることは武士の不吉とされたので御法度でした。もちろん、当時日本国内にいた外人に対 しても、治外法権ではなく、適用されることは外人達も承知していたと思います。
  通訳をつれた外人二人が隊列を横切ろうとしましたので、瀧源六郎が手真似して、先に廻るか後に廻るか、列を切 らないことを話しました。そこにまた一人の外人が列を横切ろうとしましたので、影山萬吉が槍で押し返しました。 すると瀧善三郎の前に来ましたので、善三郎もまた押し返そうとしますと、外人は向こうに行くのだといって、杖を 振り振り横切ってしまいました。善三郎は「己れ悪き奴也」とて槍で脇腹を突いたら、外人はそのまま左の家に這っ て入ってしまいました。やがて外人が五、六人鉄砲を持ち出し発砲騒ぎとなって、ついに大勢の外人が加わって戦闘 となってしまいました。兵力の差は敵することも出来ず、日置部隊は抵抗を避け全軍を六甲山の方面に引きました。
  備前藩の精鋭は今日から見れば種子島伝来当時のままの姿です。一方外人部隊は近代兵器を持って彼我の差は雲泥 の相違でした。近代装備を調えたイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシャの列強六カ国に神 戸が占領されてしまいました。しかも列強は、当時兵庫港内にいた日本船六隻をすべて抑留、金品を没収するという 略奪行為にまで及んだのです。それとともに、六カ国外交団は備前藩士が外国人を襲ったことを難詰問責して、各国 の満足いく解答がない場合は、備前藩のみならず日本国中の大災難になるだろうと警告したのです。明治維新初頭外 国から日本に向けられた声明は、武力を笠に着た恫喝、威嚇に満ち満ちた強固なものでした。
  事件後、関係者の働きにより、列強の代表が見守る中で瀧善三郎が切腹する処置で解決しました。維新政府はこと もあろうに、事件の四日後に攘夷思想を捨て、和親を表明しました。瀧善三郎はこの和親によって田舎者として処分 されたのです。《去月十一日神戸に於いて、行列へ外国人共、理不尽に衝突したるに付、吾が国法に違うを以て兵刃 を加え、続いて発砲を号令せしは拙者なり。吾は遠国の者にて、朝廷如斯外国人を鄭重に御取り扱いに相成ること全 く承知せず。今過日の罪科を償う為、ここに割腹して死にます。御検証を乞います。
  瀧の言葉から、処罰されるべきは日本の法を犯した外人でなければなりませんのに、法を守ろうとした自分が割腹 して国難を救わねばならなくなってしまった無念の胸の内がひしひしと伝わってきます。
  この瀧の犠牲による神戸事件によって、新政府は各藩をコントロール出来る能力ありとして対外信用を獲得し、国 際承認を獲得して、国際社会に第一歩を踏み出すことが出来たことはまことに皮肉でした。

 【引用資料】
 『金川町史』板津謙六・金川町史編集委員会発行

トップページへ

inserted by FC2 system