七、長野氏地頭職剥奪される

澤潟 四郎

鎌倉幕府滅亡後の建武二年(一三三五)に、建武新政が、長野氏の様な各地方の 土着領主が所有していた父祖伝来相伝の領地について其の取得の由来・経緯も把握 しないで、彼らの領地は朝敵鎌倉幕府から安堵されたものであり、建武新政にとっ ては無価値、無効であり、むしろ朝敵幕府の御家人として地頭職を保証されたとい う事は敵陣営の一部と見なし、それゆえに地頭職を没収し、功臣や貴族達に、いと も簡単に加賀とは全く関係のない足利一門の吉良省観に与えてしまった。

鎌倉の御家人として、その安堵状を奉じ、寸土にもにじむ父祖の血と汗の領地を 代々一生懸命に守って来た地方土着の武士達にとって、後醍醐天皇の「王政・王臣・ 王土」の理想は、逆に彼らのささやかな権利を無視した暴政と映ったのである。こ の不満と反感は建武新政をわずか三年で崩壊させ、武家政権復活、足利幕府誕生の 原因となったが、その一例を長野氏に見るのである。
吉良省観に与えられた「能美庄地頭職」の中には各々独立した様々な多くの「職」 があったが、そのすべてを一括して省観に与えたことに問題があった。直接相伝の 権益を剥奪された在地の豪士達は抵抗し、白山中宮八院長更源光らによって押妨さ れた。省観はこれを訴え正当と認められたが、長野新保などが引き渡されなかった ため再び訴え、建武二年(一三三五)三月五日に認められた(「雑訴決断所牒」石清 水文書)。さらに続く土着勢力の抵抗をかわすために、せっかく入手した能美庄地頭 職を放棄し、石清水八幡宮に寄進するに至るのである。

雑訴決断所牒(石清水文書)
足利上総前司入道省観申、八院長吏源光以下輩、濫妨当国能美庄地頭職事副申状具書。
牒。 於源光等者、違背勅裁之間可進之。至下地者可沙汰之由、先度成牒之処、本庄 者雖打渡之、一針郷号新保 長野新保并公文彦七以下分者無沙汰云々。任綸旨可沙汰 省観代。若有子細者可注進者。
 以牒。
 建武二年三月五日  采女正中原   在判
     民部卿藤原  前伊勢守小槻宿禰 在判
     右京大夫藤原朝臣 在判 右少弁藤原朝臣
     正三位藤原朝臣  在判

そして建武二年から四〇年を経た応安七年(一三七四)にはなお続く紛争の中で、 おそらく実力で確保していた長野・一針の旧領主(長野左近将濫・板津彌藤次入道子息 等)に対して、加賀守護富樫昌家がその信頼する重臣富樫一門の英田(あがた)次郎 四郎に命じて、石清水八幡宮の現地雑掌に実力で打ち渡すことを指示している。

守護富樫昌家書下写(石清水八幡宮)
長野・一針両村事、厳密致其沙汰、可令遵行石清水八幡
宮之雑掌也。縦本主等雖支申、速退彼輩、令打渡社家之
雑掌、可取進請取之状如件。
    応安七年五月十八日      昌家(在判)
     英田次郎四郎殿

この指示の九年後に、長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等が訴訟を起こしていること から考えると、簡単に没収されたとは思えない。長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等が 相当抵抗し、追いつめられて訴訟に到った事を沙彌昌堅挙状案から伺い知ることが出来る。

沙彌昌堅挙状(菊大路家文書)
 石清水八幡宮雑掌申加賀国能美庄地頭職之内長野・一
針、同重友等事、爲本知行之地、寄附當社之處、長野左
近将濫・板津彌藤次入道子息等、致そ訴之由承及候、不
可然候、無相違之様、可有申御沙汰候哉、以此旨可有御
披露候、恐惶謹言、
    永徳三年四月廿七日   沙彌昌堅 (花押)
   進上 御奉行所

文中にあるように、建武の新政権から、長野・一針・重友を含む能見庄地頭職を交付 された吉良省観が、地頭職を更に領家である石清水八幡宮に寄進したという経過から考 えると、この拳状を書いた沙彌昌堅なる人物は、直接幕府奉行所へ物申す事の出来る大 物であったに違いない。しかも「もと知行の地として石清水八幡宮へ寄進した」もので あり、長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等の行為がかんそ訴であると証言していることから、 吉良省観直系の子孫であろう。「尊卑分脈」でみると吉良省観の存在がわかり、その孫 の満貞(法名省堅)こそ、この沙彌昌堅であると推定される。
一方、父祖累代、鎌倉のご家人としてこの長野・重友の地頭職を安堵されてきた長野 (板津)氏にとっては、鎌倉幕府が倒れたからと云って、相伝の権利を建武新政権の思 惑によって簡単に取り上げられてはたまったものではない。実力をもって守ろうとする のは当然である。そして長野(板津)氏にとって自己の権利を剥奪した建武新政権が崩 壊し、南北朝時代をへて、再び武家による室町幕府が出来たことで訴訟に及んだのであ ろう。史料には見あたらないが、長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等が訴訟に出たと いうことは、鎌倉幕府滅亡時には足利幕府側にあったからこそ長野左近将濫・板津彌藤次 入道子息等が足利幕府に胸を張って訴状を出し、自己の権利を主張することもできたのであろう。
この訴えの結果はどうなったかは資料がないから明言できないが、その後の能美三庄 の記録を見ると、石清水八幡宮の直接管理下に置かれたと判断できる資料が見られ、更 に足利一門の八幡宮への援護などから考えて、石清水八幡宮の勝訴に終わった可能性が ある。こうして長野(板津)氏は地頭職を失い、石清水八幡宮に於ける長野氏の記録も 途絶え、歴史の表舞台から消えてしまった。
ここで左近将濫というのは律令制度下での左近衛尉を指すのであるが、中世ではこの 官名は空白となってそれぞれの地方のいわゆる国人クラスの在地領主達が適当に自称し ていたものとみられる。歴史家の一致した見解によると長野左近将濫と板津彌藤次入道 とが別人物の如く扱っている。しかし「大日本古文書(家わけ第17え11) 第六冊目 菊大路家文書」によれば長野左近将濫と板津彌藤次入道との間には(・)は記載されて いない。左近将濫が自称の官名であれば、長野の左近将濫である板津彌藤次入道という見解も生まれてくる。
我々の権利は源頼朝時代に認められたもので、北条政権下は通過点で、足利幕府成立 にも我々は充分貢献した。そう胸を張って主張するために北条政権下で用いた長野姓よ りも頼朝時代に用いた板津姓に戻した方が得策と判断したのだろう。室町時代に書かれ た尊卑分脈に長野ではなく板津となっているのが証拠かも知れない。
ここで板津彌藤次入道子息等における等の意味である。子息以外の人物を指すのかそ れとも子息には複数の人物がいた事を意味するのか、今では知る由もない。だが私の推論 を許していただくなら、別の章で述べるが、美濃板津氏の伝承から複数の子息がいたと 推定される。そして子息の中に紛争の過程で命を落とした者がいたのであろうが、子息 の中の生存者の子孫が美濃や尾張へと移住してきたのではないかと想像される。これに ついてはあとで美濃板津氏の伝承の所で述べることにする。

以上
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