八、禅寺と藤原頼胤・盛家父子

澤潟 四郎

@勝楽寺を長福寺の尼宗妙に寄進
郡家荘(板津荘)は、北の湊川(手取川)と南の安宅川(梯川)に挟まれ、 西は日本海に面していた。現在の根上町域を中心に、美川町・小松市の一部 を含み、東は鎌倉期には長野保や東吉光保を加えていたとみられるので、寺 井町の西半分も荘域と考えてよかろう。中世の資料に出てくる地名を拾って みると、荘内は大きく分けて南荘・中荘・北荘の三つに分ける事ができる。 中荘には任田(とうだ)郷があり、そこに勝楽寺(田中寺)があった。その寺領として、 力丸名、一楽名、貞包(さだかね)名などが知られる。
中荘に含まれる任田郷の所見は、延文五年(一三六〇)十二月廿一日の同 郷内勝楽寺別当の藤原頼胤・盛家父子が、長福寺の尼宗妙に、同寺敷地・田 畑を寄進した文書である。この藤原氏は板津氏の分流で、長野氏の一族と考 えられる。頼胤は勝楽寺の別当として長く同寺の仏事・所務を司ってきたが、 子息盛家が近くの長野田郷の中野田村(現小松市野田町付近)にあった観音 堂長福寺の別当尼宗妙に帰依し、宗妙の勝楽寺への招聘を強く望んだ為の寄 進であったと思われる。
勝楽寺は任田郷にあった村堂で、本尊は分からないが、庶民信仰的性格を 持ち、任田郷の有力者である頼胤・盛家の一族が別当職として経営維持し、 一家の繁栄と子孫の安泰を祈る彼らの氏寺的な側面もあったが、廣く郷内の 人々の信仰をも集めていたものと推定される。

頼胤・藤原盛家連署寄進状(大徳寺文書)
中庄任田郷内勝楽寺御職地・田畠事
宗妙安壽御分ゑ
右、彼御たうの田畠・本御屋しきの内参反拾代、同御た
うの内の畠、たうより東の分おいてハ、為二世願望成就
円満、当家 繁昌・子孫安穏、宗妙安壽ゑ寄進申処実也、
残分にをいてハ、弁当頼胤かはからいたるへき物也、仍
為末代亀鏡状如件、
    延文五年庚子十二月廿一日
      弁当頼胤(花押)
              藤原盛家(花押)
勝楽寺々田引付(大徳寺文書)
「勝楽寺々田引付」
透明
一、力丸名三分二分仁、参反拾代内半分庵主分米一石六斗透明
                  五家堂前光、透明
                  去年未進一石六斗透明
                  今年一石六斗、透明
透明
          半分就■藤二郎本米一石五斗、透明
一、一楽名内、三反       一人者野村五郎入道、透明
                二人未進透明
          半分二人持 一人者田中弥六入道、透明
                一石五斗透明
透明
一、野村仁教持分内、一反  六斗代二百文、去年未進透明
              当年分六斗代二百文透明
透明
一、貞包名内、 一反明星寺 一石未進透明
              当年一石透明

尼宗妙は貞和二年(一三五〇)以来長福寺の別当職にあり、野田村住人 の幅広い信仰に支えられて、長福寺は比丘尼所(びくにどころ)(尼寺)として近隣に名を 馳せていた。この寄進によって勝楽寺にも尼宗妙が出入りし、郷内の人々 とも交流することになったと思われる。宗妙は、村落の宗教的礼儀の司祭 者たる村堂別当の立場を利用して、しきりに地主的な「職」の集積を図り、 村堂の私領化を図ろうとした。これに対して村堂の氏寺化を目指してきた 別当頼胤はこうした比丘尼所の経営に難儀を感ずるようになったようである。

A勝楽寺を大禅寺の璧峯に寄進して禅寺とする
それから二年後の貞治元年(一三六二)、頼胤は比丘尼所をやめ、勝楽 寺に禅僧を迎えたいという思いを盛家に告げ、十月廿一日、盛家は老父頼胤 の願いにより、別当職と寺の一部を宗妙に寄進したものを守護富樫昌家の家 督代行たる富樫用家の証判を得て、宗妙との契約を破棄し、勝楽寺の別当職 とそれについた田畠を大禅寺の住職璧峯(へきほう)和尚に寄進することになった。

藤原盛家勝楽寺別当職寄進状(大徳寺文書)
「勝楽寺別寄進状」
奉寄進 大禅寺長老璧峯和尚加賀国郡家庄任田郷内勝楽
寺別当職事
 合壹所者、但就別当職寺田并屋敷等事透明
      別紙在之透明
右於彼別当職者、盛家相伝之処也、而此内少々、先日雖
有宗妙庵主契約、爲比丘尼所難儀多之間、始終可成僧所
之由、老父頼胤就被申候、任彼素意、如此所奉寄進実也、
殊更爲現当二世、寄進状如件、
   貞治元年壬寅十月廿一日 藤原盛家(花押)
    「爲後証加判形也」 沙彌源通(花押)
   注=沙彌源通は守護代理富樫用家のこと。
勝楽寺別当職田数注進状(大徳寺文書)
 「勝楽寺田畠等寄進状」
注進  勝楽寺別当職田数事
  合
一、本古屋敷 参段 其外者名々渡在之、
一、力丸名三分二分仁 参段拾代
一、一楽名内    参段
一、貞包名内    参段
一、野村仁教持分内 壹段
一、野村仁教弟持一楽四分一内 壹段
   以上壹町貳段拾代在之、
右、注進如件、
   貞治元年壬寅十月廿一日 藤原盛家(花押)
   「爲後証如加判形也
沙彌源通(花押)」

鎌倉時代後期ごろから、在地武士達の仏教信仰は庶民的な観音・地蔵信仰 から浄土信仰を経て、次第に禅宗に帰依していく傾向があることが指摘され ているが、おそらく頼胤の思いも当時の在地の武士社会の動向を反映したも のであろう。勝楽寺を従来の村堂から、頼胤・盛家一族の氏寺として明確に したいとの気持ちもあったのであろう。そのためには、璧峯に寄進し、禅寺 とする必要があるとの判断であった。
大禅寺は京都大徳寺の末寺で、その位置は分からないが、任田郷や野田村 からほど遠くないところにあったと思われる。その住職璧峯(崇徳)は、大 徳寺を開き花園上皇や後醍醐天皇からも帰依を受けた宗峯妙超の高弟の一人 で、加賀へ臨済禅の伝道と大徳寺の教線拡大のため精力的に活動した僧であ った。璧峯は郡家荘の領家勧修寺にも勝楽寺別当職寄進を報告し、その承認 を求めたとみえ、貞治弐年十月廿六日に安堵されている。

其御教書(大徳寺文書)
郡家庄任田郷内勝楽寺別当職事、任盛家寄附状之旨、執
務領掌不可有相違之由、依仰執達如件、
    貞治貳年十月廿六日  法橋(花押)
 謹上 大禅寺方丈

法橋は法橋上人位という僧位の略で、法眼に次ぎ、律師に相当する。但し、 ここでは誰を指すかは不明である。
勝楽寺は禅寺として再出発したが、その後盛家は文書の中で寺号を「田中寺」 と称している。これは郷内の所在地名をそのまま寺号としたものと思われ、 勝楽寺の別称として従来郷内の人々に呼ばれてきたものであろう。このような 寺号を持つ寺は、一般的な庶民信仰を基盤とする村堂的性格が強いものといわ れており、盛家がわざわざその号を用いた理由は定かでないが、あるいは璧峯 の指示によるかも知れない。

B長福寺の尼宗妙も璧峯に寄進
貞治四年(一三六五)十二月、璧峯に帰依してその頃までに宗昌と名乗って いた藤原盛家は、田中寺(勝楽寺)敷地の田地五段を売却したが、その文書に 敷地の三段は「野田方丈分」で別当職に付くとあり、璧峯が野田村長福寺の住職 になったことを示している。恐らくこの頃までに長福寺の尼宗妙もまた璧峯に 帰依し、同寺を璧峯に寄進したのである。その時の寄進状を紛失したためとして、 宗妙は康暦二年(一三八〇)四月にあらためて寄進状をしたためている。

藤原盛家田地売券(大徳寺文書)
売渡 郡家庄任田郷内田中寺本敷地内田地事、
  合伍段者、坪付別紙在之
右於彼田地者、宗昌重代相伝之私領也、雖然依有要用、
代銭弐拾伍貫文ニ、限永代所売渡実也、雖経後代更不可
有他妨、但於彼下地者、壱町壱段弐拾伍代也、其内参段
者野田方丈御分也、就別当職者也、又参段弐拾伍代者、
正林房分也、残伍段所売申也、次此下地ニおきてハ、万
雑公事かけ申ましく候、公方よりの天役の時者、庄家の
はうれいにまかせて、半分さたあるへく候、此外ハ大小
御公事なにゝても候へ、かけ申ましく候、又万一子とも
の中ニ、違乱煩儀申仁あらハ、ふけふの仁たるへく候、
仍為後日売券之状如件
貞治四年乙巳十二月五日   宗昌(花押)

沽却田地坪付注文(大徳寺文書)
 田中寺敷地内令沽却田地伍段坪付事透明
透明
一所弐段 反別壱石六斗代、又百文在之、本屋敷ヨリ透明
     南東ヨリ、南ハ路をさかう、透明
透明
一所壱段 壱石五斗代、又百文在之、透明
     本屋敷ヨリひつしさる、西者江をさかう、透明
透明
一所弐段 壱石六斗代、百文代、透明
     本屋敷よりいぬい、西北者江をさかう、透明
透明
     以上伍段也、透明

少なくとも鎌倉後期の弘安六年(一二八三)以来の歴史を持つ野田村の村堂は、 その性格の変化と共に野田寺→福龍寺→長福寺と寺号も改めてきたが、ここに当時 地方への教線拡大をはかっていた京都大徳寺の教線の末端に位置づけされることに なり、勝楽寺もその傘下に入ったことになろう。こうした地方に教線を伸ばした禅寺を林下と呼んでいる。
宗妙による璧峯への長福寺寄進は、おそらく盛家の勝楽寺寄進が契機となったも のと推定され、璧峯は長福寺を林下に改め、その開山となることを承諾し、大禅寺 より移り住んだのであろう。璧峯は永徳三年(一三八三)頃亡くなったが、その遺命 により至徳元年(一三八四)五月長福寺は正式に大徳寺雲門庵の末寺となった。京都 大徳寺は従来幕府の官寺である五山の一つであったが、この二年後将軍足利義満に よって五山から十刹に格下げとなり、まもなく五山に対して在野的立場を取るようになっている。

C長福寺に寄進した別当職を長福寺に再度寄進
一方勝楽寺(田中寺)が明確に頼胤・盛家(宗昌)一族の氏寺となったかどうかは 分からないが、永和三年(一三七七)六月六日、宗昌はかって一度長福寺へ売却した ことのある同寺別当職五段を、改めて長福寺に寄進し、同日付けで同じ田地を一貫六 〇〇文で売却する旨の売券を書き添えた。

藤原盛家田地寄進状(大徳寺文書)
奉寄進 長福寺
 加賀国任田郷内田中寺別当職田之事
 合伍段者、
右於彼名田者、宗昌重代相傳之私領也、雖然為現当二世、所奉寄進長福寺明白也、 仏蛇施入之上者、雖及末代不可有違変之議、於万雑公事不可懸之、若一族子孫之 中仁致違乱者、為不孝之仁、不可知行宗昌之私領者也、仍為後代亀鏡、寄進状如件
永和三年六月六日   宗昌(花押)

藤原盛家田地売券(大徳寺文書)
うりわたす反別水銭之事
 合伍反者、在所任田郷之中田中寺
別当職之内也
右件田者、雖為宗昌重代相伝之私領、要用仁候、仍代用途壱貫六百文仁、限永代 うりわたし申候処実也、若か様ニ乍契約申、かさねて煩を申候ハゝ、別当職を 一ゑんニをさえ、被知行申候ハんニ、子細を不可申候、尚々子孫之中ニ煩を申仁 候ハゝ、可為不孝之状如件、
    永和三年六月六日   宗昌(花押)

以上
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