九、長野昌成と藤原宗昌(盛家)

澤潟 四郎

 藤原宗昌が長福寺に寄進した田中寺(勝楽寺)別当職五段は永享五年(一四三三) 三月檀越の一人尼宗円が作成した「長福寺寺領目録」にも「一、板津任田、勝楽寺 五段田」と見えている。一方、文安五年(一四四八)五月、細川勝元の家臣で、 郡家庄領所代官であった安富元盛による「元盛長福寺田安堵状」にある「加州郡家庄 任田郷内長福寺田五段」は勝楽寺別当職のことと思われる。「長福寺寺領目録」と 「元盛長福寺田安堵状」と重ねると、板津荘と郡家荘とが異名同荘であることが推定される。
 宝徳三年(一四五一)八月に、当時の長福寺住職が長福寺寺領目録を写して、注記 して新たに寺領目録を作成している。この目録に見られる、板津は五段の別当職田地 の寄進者と考えられる。この田地を寄進した者は藤原盛家(宗昌)であるから、盛家 こそ成景以後板津姓を唱えた人物で、十二項の考察で前述の板津彌藤次入道ではないかと想像される。
 更に、この目録に、別当職五段については「不知行の年久し、高塩代、嘉吉二年こ れを安堵する」とある。高塩代とは誰か不明だか、藤原盛家から寄進されてから、長年 にわたって不知行であったところ、嘉吉二年(一四四二)漸く安堵されたらしい。
 今は、勝楽(田中)寺そのものも消失してしまったが、その事を裏付ける資料は残 されていない。恐らく前項で述べた板津彌藤次入道子息等の抗争の過程で知行出来な い状態となったのであろう。今は寺の所在すら伝承にも残っていない。
 長福寺寺領目録(大徳寺文書)
  長福寺領之目録
一.兼友名田地
   合参町此分公事物参貫三百四十八文、領家出之、
一.清実名田地
   合壱町参段分米十七石九斗透明
         此分米八石二斗、領家へ出之、透明
                  御服五十目、透明
透明
一.堂田 田地透明
   合伍段分米七石透明
透明
一.板津任田勝楽寺五段田
      山上之杉田左衛門之跡透明
透明
一.屋敷一所透明
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   合一段五十刈透明
一.路端之田湯田
   合二段半 此内半江ニ堀、江代分米八斗、透明
        自野田弁之、透明
透明
    永享五年三月 日
                宗円誌之、

愚老住持間、 本寺領中、或安堵透明
        或新寄附田地之事透明
透明
貳段  道空  宗円・宗讚為月忌、
壹段  宗讚  為追善、
透明
貳段  長野殿 一反為鐘撞、透明
        一反為風呂、透明
透明
貳段  道本都寺為追善、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五段  板津  不知行年久、高塩代、透明
        嘉吉二年安堵之、透明
透明
肆段  包友  雖有寄進状、開山以来未知行下地、透明
        宝徳二年安堵之、透明
透明
壹段   道盛  為道空月忌、
   宝徳参年八月 日
           住山(花押)

安富元盛長福寺田安堵状(大徳寺文書)
加州郡家庄任田郷内長福寺田五段事
 右、任支証之旨、当知行不可有相違、於所役等者、可任
先規者也、仍状如件、
   文安五年五月九日         元盛(花押)
    長福寺

河村光秀諸公事免除状(大徳寺文書)
長福寺領任田郷内之五段田事、寄進申さるゝうへハ、向
後諸公事申へからす候、仍状如件、
   文安五年九月廿九日    河村光秀(花押)

嘉吉二年(一四四二)五月板津氏の系譜を引く在地領主長野昌成が、中野田村に所有 していた土地二段を寄進し、所領が安堵しているように、室町期を通じて野田村や郡家 荘の有力名主・在地領主の信仰に支えられて林下寺院としての活動が継続されていったと思われる。
宝徳三年(一四五一)の長福寺寺領目録では、板津など他の寄進者が名前のみである のに長野殿と敬称が付けられているから、この時代においても、長野氏は村内で伝統的 な格式と実力とを持ち合わせていた事が分かる。この人物は板津成景の後胤で長野の実 質的な支配者であった長野(板津)氏の子孫であったことは間違いない。尚、昌成とあ るから藤原宗昌(板津彌藤次と思われる)とゆかりの人物とも考えられるのである。
このようにして、少なくとも関係ある資料と見られるあらゆるものから抜粋した板津 (長野)氏の系譜はこうして嘉応三年(一一七一)の介次郎から嘉吉二年(一四四二)の 長野昌成まで約二百七十年、断片的な部分もあるが追跡することができた。しかし残念 ながらこれ以後の長野村を含む能美三庄に係る記録の中で「長野氏」に関する資料は見 当たらないようである。
また林下寺院としての活動が確認される下限は享禄三年(一五三〇)であり、その後 加賀一向一揆の高まりの中に埋没していったと思われる。

長野昌成田地寄進状(大徳寺文書)
 奉寄進
加賀国中野田村長福寺田地之事透明
透明
   合貳段者、内 一反野田了心作、透明
          一反庄村法正作、透明
透明
右田地者、昌成相伝当知行之地也、然彼御寺鐘推田并為
毎月十三日長福上坐忌日施浴、永代奉寄附所也、如此奉
寄附上 者、於子々孫々而、若4・違乱煩申輩者、不孝之
仁而、昌成跡不可知行者也、仍為後日証文之状如件、
  嘉吉貳年五月十三日     昌成(花押)

長野昌成補任状(大徳寺文書)
 補任
右加賀国中野田村長福寺之田地貳段事、任昌成寄附旨、
不可有相違永代知行、仍為後日支証之、補任之状如件、
  嘉吉貳年十一月八日       預所(花押)

盛久長福寺領成安堵状(大徳寺文書)
長福寺々領下地貳段事、任長野方寄進状旨、不可有領掌
相違者也、仍為後日之状如件、
   文安五年九月 盛久(花押)

注)以上三通の文書は上書きに「長野殿寄進状、同補任状、同安堵状以上三通」とある包紙に包んであった。

以上
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