十、板津九郎 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

 江戸時代の著名な歴史家富田景周が著した「越登賀三州志」によると、「年代鑑」と いう書物に、以達九郎なる者が古の小松城(山城)を取り立つとあります。以達は板津の誤 りでしょう。
 また、同書では天正四年に加州の賊魁若林長門が笹藪をなぎ払って城を築いたとあります (富田景周は江戸時代末期の歴史家であるが、確証無しに200年前の出来事を記載しており、史実とは言い切れないと思う)。 また、同書には柴田勝家が城に取り立てて、徳山某を置くとあります。しかし、いずれ が事実であるかわ解らないのが実情ですが、小松地方では、権威ある富田景周の記載 であるから若林長門説を採用しているようだが、景周自身がいずれも不詳と云っている から、自己矛盾に陥っています。
 筆者としては板津九郎説を採用せざるを得ません。板津九郎には「年代鑑」という史料を 引用しているからもっとも確かです。それでは九郎はいつ頃に活躍したのでしょう。今では 「年代鑑」そのものが残っていないようなので、九郎の活躍した時代を推定してみよう。
 それには先ず、歴史的な背景から入らなければなりません。「越登賀三州志」によると、 小松城の前身は一向宗徒の砦であったようです。享禄四年(一五三一)の錯乱に小松 の道秀と云う者がいたといいます。その後永禄五年(一五六二)朝倉義景・明智光秀がこの 地にいたことが知られています。九郎はこれよりももっと古い時代の人物と考えられますか ら、一向宗を広めた蓮如が吉崎に進出した文明年間(一四六九)が九郎が活躍した時代の 下限と考えられます。
 一方、板津氏は承久の乱以後、長野姓に変更しましたが、室町時代の初めに板津姓が 再び現れます。板津氏は今まで鎌倉時代を通して、所領を安堵されてい ましたが、建武新政府に所領を没収され、その後は実力で所領を確保していました。 応安七年(一三七四)には時の守護富樫氏の命を受けた英田四郎によって実力で排除されたようです。 永徳三年(一三八三)年には室町幕府に訴訟を起こしています。そうした殺伐とした時代 の人物の一人が板津九郎ではないかと考えられます。そうすると、西暦一三八三から 一四六九年までの間の九〇年間が九郎の時代という事になるでしょう。後の章で述べます が、美濃板津氏に郎九又は九良と呼ばれる人物が伝承されていますが、この人物が板津 九郎かも知れません。

  小松城徴妙公養老以後状(越登賀三州志)
 小松城名を按ずるに、曾て古書中に見ることなし。享禄四年の賊魁に、小松の道秀と 言ふ者北陸七国志に見ゆ。(道秀は小松に住せし火宅僧の名也。)是小松の字面顕るゝ 権興也。
 爾後永禄五年浅倉義景、明智光秀に日本にての要害の地を問ふとき、加賀にては小松 (明智記には小松城辺とあるが景州が城を削除)辺と対ふること明智記に見ゆ。然れども城の事を言わず。同七年九月十二日義景出馬、 本折小松城陥ると言うこと宗滴雑談という実記に見ゆ。是城の字顕るゝ起原也。世俗の 口碑に、古の小松の地は今の本折なりと言う。
 年代鑑と言雑録を見るに、古へ此の城に以達九郎居すとなり。按るに、以達は板津の 誤也。板津は此の郡の郷名也。(倭名鈔には此の郷名見えず。中古以来の郷名なり。) 板津九郎は確徴なけれども、林加賀介成家の子に板津介成景、その子に板津三郎景高、 その子に板津小三郎家景あり。家景は承久三年家綱の為に討たること諸家系図の印本に 見ゆれば、九郎も系図に載せざれども此の族なるべし。
 又此の地笹筱(ささやぶ)のみ繁茂せるを、天正四年加州の賊魁若林長門(伝記本記)之を芟拂 ひて城を築く。此の地薗村領(薗園同字)たるを以て園の小松と名つくと。名義分明 ならざれども、名蹟志等の書に傳ふる所如是。(一説に、花山法皇此の地に徴行の時、 供奉の近臣客館を梯河邊に構へ、後園を廣く造り、稚松を多く栽ゑて愛玩せしが、年 を歴て館も廃却し、其の迹を園の小松原と人々呼びしか、後開墾して薗村と名づけ、松 原に民家を造りたるより地名を小松と稱すと加来因巻に詳記す。)或いは柴田勝家城 に取り立て、徳山某を置くと云ふ。並びに不詳。

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