澤潟四郎板津は潮津なりとの説が「加賀志徴(巻六)」に記載されています。千葉県に潮来の地名がありま すが、ここはかって板来と呼ばれていました。この地方の古い方言として潮をいたと言ったそうです。
加賀志徴(巻六) 根上町史に今湊を板津と呼んだ次のような根拠をあげています。延徳三年(一四九一) の冷泉為広による「越後下向日記」に、下向ルートの中にイタツが見え、これが湊浜 と湊河の中間に見えることから、湊川河口の左岸にある今湊(現・美川町湊町)をさ し、当地が板津荘における流通の拠点であったことから、「板津」とも呼ばれたとい うのです。逆の見方をすれば、今湊が板津の地名の由来とも考えられます。
板津姓が歴史上初めて登場したのが文治二年(一一八六)であり、その後突 然消え、再登場したのが永徳三年(一三八三)です。板津荘と板津姓の出現 と、再登場の時期がほぼ一致していますから、鎌倉時代には板津荘の呼び方が忘 れ去られていた事も考えられます。 郡家荘は最初は皇室領の安楽寿院領としてまず立荘された後、承久の乱で没 収され勧修寺領となり、いったん安楽寿院領として回復しましたが、再び勧修寺領 として伝領されたと推測されます。建武三年(一三三六)九月十七日には勧修寺 の一円進止領となりました。その後文和四年(一三五五)七月十八日の足利尊氏御 教書は守護の兵糧徴収を停止させており、応永十七年(一四一〇)七月廿日の 斯波満種遵行状では、守護不入地として二宮信濃入道なるものが郡家荘内の売 却地に干渉することを禁じており、応永十八年十月廿七日の畠山満家施行状も、 一円進止地として安堵しています。「建内記」の永享三年(一四三一)三月十日 状によれば、百姓の逃散は二松の責任としています。二松備前入道永薫申状には 預所職を解任された二松氏は、文安元年(一四四四)六月幕府に訴えて預所職 の返付を求めましたが、細川家家臣の安富勘解由左右衛門が預所職を得ています。こ の郡家荘預所職を巡る二松氏と安富氏との対立はその後も続き、勧修寺の支配は多事多難でありました。 郡家荘については、かって「和名抄」に見える江沼郡郡家郷と混同され、江 沼郡所在の荘園とされてきました。今でも史料集・歴史辞典等で、中世郡家荘を江 沼郡所在と誤解しているものがあります。それは一つには、郡家荘が板津荘と同体 であることが理解されなかったことによると思われます。 郡家荘が板津荘と異称同体であることは三森定男氏によって明らかにされ、 次いで井上鋭夫氏・浅香年木氏によって確認・補強され、既に定説化しています。 二つの荘号のあり方については、当初板津の荘号で呼ばれましたが、安楽壽院領 となって郡家荘と称され、その後戦国期になって在地の一揆組織「板津組」に よる自主管理体制確立の動きが反映されて、板津荘号に復したものであろうと 説明されてきました。しかし、史料上では郡家荘の号の初見が早いことが確認され、 また途中板津荘の号も使用されていることから、この説明では不十分と思われます。 史料における呼称のあり方から見れば、郡家荘の号は安楽壽院・勧修寺など 荘園領主の立場から一貫して用いられています。一方在地においては、大徳寺文 書に「郡家南庄」の使用例が見られますものの、板津庄の号がほぼ一貫して使用 されています。従って「郡家庄」・「板津庄」の号は併用して用いられたのであ り、概して「郡家庄」は領家の立場からの、「板津庄」は在地側からの呼称と みなすことが出来るでしょう。しかし「板津庄」の呼称は史料の上では鎌倉時代直前 の中原頼貞譲状案しかなく、室町時代に入ってから使われ出した事は注目すべきです。 郡家荘は湊川(手取川)と安宅川(梯川)に挟まれ、西は日本海に面する砂 丘地帯を形成していました。中央部から南部にかけて肥沃な能美平野の一角を占め ましたが、鎌倉末期以後直接に史料には現れませんものの、湊川の洪水の被害をしばしば受けていたと思われます。 郡家荘の荘域の総体を示した史料は今のところ見あたりません。鎌倉後期頃郡 家荘は九郷から構成されていることが知られますものの、具体的な郷名の全てまで はわかりません。郷(保)名として早く見えるのは、長野と東吉光保です。 鎌倉後期には、荘域は南庄・中庄・北庄に分けられていた模様で、南庄には 高坂郷・上郷、中庄には任田郷が確実に含まれ、中郷・下郷は南庄、今湊は北 庄に含まれていたと思われ、ほかに二口・五家堂が中世地名として知られています。 |