西暦 |
和暦 |
国名 |
歴 史 的 な 概 要 |
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1171 | 嘉応3 | 加賀 | 二月、仲原頼貞、板津成景(介次郎)に加賀国重友村の証文を譲渡す。重友村は板津庄訪示外の牛嶋境に存在する(石清水菊大路家文書)。 |
1179 | 治承3 | 全国 | 五月、源頼政は平家打倒の兵を挙げ、宇治川付近で敗れた。 |
1181 | 治承5 | 全国 | 木曾義仲は挙兵し、京都を目指して北陸道進出を図る。 |
1183 | 寿永2 | 加賀 | 木曾義仲、倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破る。林、冨樫、及び一族の倉光は参陣する。(板津が参陣したという史料はみあたらない) |
加賀 | 十月、倉光六郎成澄は備中に於いて瀬尾(妹尾)兼康のために討たれる。兼康もまた木曾義仲軍に討たれる。(源平盛衰記他) | ||
1184 | 寿永3 | 全国 | 木曾義仲は源義経・範頼の軍により、近江粟津で敗死した。北陸の 武士達はこれより先、義仲より離反して都から落ちていった。 |
1185 | 文治元 | 全国 | 十一月、源頼朝、日本国総追捕使・同地頭に任命される。 |
1186 | 文治2 | 加賀 | 九月五日、源頼朝、板津成景等の加賀国額田荘の濫防を停める。 (源頼朝下文案 松平文書) |
1201 | 建仁元 | 加賀 | 七月、板津成景(介次郎)、次男江沼三郎(板津景高)に能美荘内の重友保を譲る。(石清水菊大路家文書) |
1221 | 承久3 | 加賀 | 六月の承久の乱にて板津家景は棟梁の林家綱に誅殺さる。(尊卑分脈) |
1226 | 嘉禄2 | 加賀 | 二月、長野景高(板津景高)は承久の乱にて、嫡男の長野三郎家景(板津家景)が誅殺されたため。孫の長野二郎盛景に長野保等重友を譲る。(石清水菊大路家文書) |
1228 | 安貞2 | 加賀 | 八月、長野盛景、江沼景能の能美荘重友村を押領するを訴えて、北条朝時より安堵される。(石清水菊大路家文書) |
1279 | 弘安2 | 加賀 | 九月、長野盛景はその子盛能に、又将来は孫の弥藤次に重友村及び長野の地頭職を譲るという遺言を書く。(石清水菊大路家文書) |
1327 | 嘉歴2 | 加賀 | 六月、長野総領地頭は南禅寺より用水を打ち止めされたと訴えられる。 (南禅寺文書) |
1335 | 建武2 | 加賀 | 三月、建武新政権は板津一族の所有する能美庄地頭職を取り上げて、加賀とは無縁の吉良省観に与えた。(石清水菊大路家文書) |
全国 | 九月、冨樫高家は足利尊氏より加賀国守護に任ぜられる。 | ||
十二月、足利尊氏、後醍醐天皇に反旗を翻し謀反する。 | |||
1336 | 建武3 | 全国 | 正月、足利尊氏、南朝軍に攻められ、京都を去る。 |
六月、足利尊氏、九州から京都へ戻る。南北朝時代始まる。 | |||
加賀 | 六月、吉良省観、板津一族との紛争を避けるため、石清水八幡宮に能美庄地頭職を寄進する。 | ||
1338 | 建武5 | 全国 | 八月、新田義貞討死する。 |
1353 | 文和2 | 加賀 | 九月、遊仙窟奥書(名古屋市宝生院所蔵)に板津庄の地名有り。 |
1357 | 延文2 | 加賀 | 七月、三千仏図に加賀国板津庄内薬師寺奉施入三千仏と見える。 |
1360 | 延文5 | 加賀 | 十二月、板津一族で勝楽寺別当の藤原頼胤・盛家父子は尼宗妙に同寺の敷地・田地を寄進した。(大徳寺文書) |
1362 | 貞治元 | 加賀 | 十月、藤原盛家は勝楽寺別当職を大禅寺住職壁峯崇徳に寄進した。 (大徳寺文書) |
1365 | 貞治4 | 加賀 | 十二月、藤原盛家(宗昌) 、郡家荘任田郷内田中寺(勝楽寺)本敷地内田地五段(板津の寄贈)を売り渡す。(大徳寺文書) |
1374 | 応安7 | 加賀 | 五月、冨樫昌家は守護代の英田次郎四郎に長野・一針を旧領主(長野左近将監・板津弥藤次入道子息等)から武力で石清水八幡宮に打ち渡す事を指示する。 |
1377 | 永和3 | 加賀 | 六月、藤原盛家(宗昌)は長福寺に郡家荘任田郷内田中寺(勝楽寺)別当職田五段をあらためて売寄進した。 |
1383 | 永徳3 | 加賀 | 四月、長野左近将監・板津弥藤次入道子息等は長野・一針・重友等の地頭職の回復を願って訴訟を起こす。 |
1432 | 永享4 | 加賀 | 左衛門光家田地寄進状に「北ハ板津堺」とみ見ゆ。 |
1433 | 永享5 | 加賀 | 三月、長福寺目録に板津任田勝楽寺五段田と見ゆ。 |
1442 | 嘉吉2 | 加賀 | 五月、板津一族の長野昌成は中野田長福寺に田地二段を寄進する。 |
加賀 | 十一月、長野昌成の寄進した長福寺寄進田が安堵される。 | ||
1451 | 宝徳3 | 加賀 | 八月、長福寺目録に嘉吉二年の寄進者長野昌成が長野殿と敬称を付けて記載されている。本目録に五段の寄進者板津の田地あり。 |
1462 | 寛政3 | 加賀 | 『板津親家書状』に「よなみつ村万福寺」とみえる。よなみつとは現在の石川県白山市米光町の事である。 |
1467 | 応仁元 | 全国 | 応仁の乱が起こる。 |
1468 | 応仁2 | 加賀 | 十一月、勧修寺八幡宮神主祐家、板津庄の御灯用途滞納油田売却。 |
1474 | 文明6 | 加賀 | 法印宗果、板津荘にて勧修寺長史恒弘法親王より印明を伝授さる。 |
1479 | 文明11 | 美濃 | 六月、板津政継・政吉・政次親子は加賀石川村より東国に向かい、滝田三本木・太田万場へ移住するとした伝承と、近江蒲生郷より東国に向かい、三本木・太田万場へ移住との二つの伝承あり。(家伝書) |
また板津政次の子孫の家には、六月、板津時成親子四人は加賀国石川村より東国に向かい、太田村に滞留。文明十三年太田宿の住民となる(家伝書)。板津政継と板津時成は同一人物。 | |||
1487 | 長享元 | 美濃 | 藤原朝臣板津若狭守貞久は今洞白山神社を建立した。 |
1492 | 延徳3 | 加賀 | 細川右京太夫政元、加賀の国を下向して板津(今湊)を通る。 (越後下向日記) |
1515 | 永正年中 | 尾張 | 板津中務丞正平は楽田城主の織田弾正左衛門尉に仕えた。?(塩尻) |
美濃 | 板津九兵衛光定、合戦のため京都へ度々出陣。(家伝書) | ||
1530 | 享禄3 | 全国 | 土岐支流の田原左衛門尉頼吉、勝山猿啄城を築く。 |
1532 | 天文元 | 美濃 | 板津兵右衛門政光は猿啄城城主・土岐支流の田原左衛門尉頼吉の軍師として小野山城合戦に加わり、戦功を立てる。(家伝書) |
1540 | 天文9 | 若狭 | 湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流れて来た御神体を拾い上げ正智院に納める(三国神社伝承)。これが三国神社の起源。 |
1543 | 天文12 | 美濃 | 九月、藤原朝臣板津与十郎吉継は今洞白山神社を再建した。 |
1550 | 天文20 | 美濃 | 1550年頃、板津左京安道が滝田に、後になって太田本郷に移住してきたとの伝承がある。(家伝書) |
1551 | 天文21 | 尾張 | 三月三日織田信秀死して、織田信長家督を継ぐ。 |
1556 | 弘治2 | 全国 | 斎藤道三、子の斎藤義龍のために討たれる。 |
1557 | 弘治3 | 全国 | 佐藤紀伊守、竜福寺を開基す。開山は天猷玄晃和尚。 |
1558 | 永禄年中 | 尾張 | 板津善右衛門藤原休ト、池田勝三郎信輝に仕え二百石を賜る。 (家伝書) |
1560 | 永禄3 | 全国 | 五月十九日、織田信長、桶狭間の合戦にて今川義元を討ち取る。 |
1565 | 永禄8 | 美濃 | 加治田の勇者、白江庄右衛門、信長方にあって堂洞城を攻撃する。 |
1573 | 天正年間 | 尾張 | 板津吉左衛門は織田信雄、板津与三兵衛は中川勘右衛門尉に仕える。 (尾張国神職緒家系図) |
美濃 | 天正年間、天猷玄晃和尚、板津氏の菩提寺、法源寺の前身福源寺の開山となる。 | ||
1577 | 天正5 | 尾張 | 楽田城主、織田弾正左衛門信景の家臣に板津右近(橘正義)あり?。 (家伝書) |
1582 | 天正10 | 全国 | 六月、織田信長本能寺の変にて討ち死にす。 |
美濃 | 八月、森長可、加治田城を攻める。白江庄右衛門、加治田方にあって奮戦、のち城主病死により森氏に仕官。 | ||
1584 | 天正12 | 尾張 | 三月十三日、板津善右衛門藤原休トは犬山城合戦で日置忠勝(猪右衛門)に取手を命ぜられる。(家伝書) |
美濃 | 四月九日、池田信輝、森長可、白江庄右衛門長久手合戦にて戦死した。池田信輝、白江庄右衛門の葬儀を大山(滝田の隣村)齢峯寺にて行い、天猷和尚焼香。 | ||
1590 | 天正18 | 尾張 | 板津善右衛門藤原休トは小田原合戦に従軍。(家伝書) |
1598 | 慶長3 | 加賀 | 板津了甫、始め大聖寺藩堀久太郎に仕え、加賀藩二代目藩主前田利長が金沢城に入場した時、二百石で召し出される。 |
1600 | 慶長5 | 尾張 | 休トの子板津伊織介藤原定秀は関ヶ原の合戦にて功名を立てた。 |
金川 | 池田輝政播磨へ転封、伊木清兵衛、板津善右衛門藤原休トも移住。 | ||
美濃 | 板津庄五郎、森家臣として上杉との対陣に戦功あり。(兼山町史) | ||
1604 | 慶長9 | 美濃 | 板津庄五郎、美作国勝南郡の検地帳に見られる。(矢吹家文書目録) |
1605 | 慶長10 | 加賀 | 板津佐兵衛直頼、加賀藩馬廻衆として三百石。(加賀藩初期の侍帳) |
1615 | 元和元 | 全国 | 大阪夏の陣にて豊臣家滅亡。この時、板津市左衛門、板津庄五郎は森氏陣営に見える(美作古城史他)。板津伊織介藤原定秀(金川)、板津佐兵衛直頼(加賀)、板津六右衛門名代板津彦八(滝田)、板津左右衛門次(太田)等は参陣。 |
1627 | 寛永4 | 加賀 | 板津八兵衛直明、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) |
白江三郎左衛門、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) | |||
白江休悦、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) | |||
1642 | 寛永19 | 加賀 | 白江長七、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) |
白江太郎右衛門、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) | |||
1639 | 寛永16 | 富山 | 板津直頼の子、板津直清は富山藩付となった。(富山藩士由緒書) |
1661 | 寛文元 | 加賀 | 板津兵助、加賀藩にて二百石。(加賀藩初期の侍帳) |
1662 | 寛文2 | 加賀 | 板津八兵衛、先祖以来の由緒書を著す。(加賀志徴) |
1668 | 寛文8 | 加賀 | 九月、板津検校(正的又は巽一)、前田綱紀の為に歌集「正的筆記」を著す。 |
1671 | 寛文11 | 加賀 | 板津権左忠直、加賀藩馬廻り組にて四百石。(加賀藩初期の侍帳) |
1681 | 延宝9 | 富山 | 八月十四日、富山藩、板津加右衛門閉門を被る。 |
1697 | 元禄10 | 富山 | 板津加右衛門参勤交代の時節伺い。 |
1711 | 正徳元 | 美濃 | 堂洞合戦にて消失したと云われている弥勒寺の跡地に板津喜平衛勝吉が弥勒石像を建てた。(富加町史) |
1718 | 享保3 | 美濃 | 滝田板津文書「滝田村高反別有来覚差出控」 |
1732 | 享保17 | 加賀 | 加賀板津氏は板津亀之介にいたり悉く断絶した。(加賀志徴他) |
1761 | 宝暦11 | 美濃 | 庄屋板津宇平治は農民に五人組御仕置帳を読んで聞かせる。(富加町史) |
1791 | 寛政3 | 美濃 | 板津万蔵、犬山市楽田永泉寺の宝篋塔を刻む。 |
1813 | 文化10 | 美濃 | 板津宇平治政道は納庄屋として江戸に出向して無事大任をはたし、中山道を意気揚々として馬に乗り郷里へ向かう。(富加町史) |
1838 | 天保9 | 富山 | 二月、板津嘉右衛門、富山藩に板津家先祖以来由緒書を上申。 |
1857 | 安政4 | 美濃 | 板津喜兵衛、三拾三所観音様御寄進。(富加町史) |
1868 | 慶応4 | 備前 | 一月、神戸事件起こり、備前藩板津吉顕は家老嫡子として奔走。 |
1868 | 明治元 | 全国 | 明治新政府誕生。 |
1882 | 明治15 | 美濃 | 今泉板津文書「判取帳」。荷車一台を村中で購入。 |
1897 | 明治30 | 美濃 | 板津宇平治、富田村の初代村長となる。 |
1954 | 昭和29 | 美濃 | 板津亨、富加村の初代村長となる。 |