白川上皇を手こずらせた林成家(板津成景の父) Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  白川上皇といえば平安時代の末期、飛ぶ鳥の勢いを持った方で、加茂川の流れと僧兵だけが思うようになら ないといわれた人です。上皇のおふれの中に鷹狩りなどで鳥をとれば、京都を追放するというものがありました。
  ところが、この上皇の掟を堂々と破った一人の武士がいました。その人の名は板津成景の父林成家といい、 平清盛の父平忠盛の家来の一人でした。茂家は上皇がかって寵愛していたが今では忠盛の妻となっていた女御の 言いつけで毎日小鳥を捕っていたのです。
  この話を聞いてカンカンになって怒ってしまった上皇は林成家を呼び付けました。成家は郎党二人をつれ、上皇の 門前に鷹を繋げ、上皇の前に参上しました。
  上皇は「そちは、私の出した法度を何故に破ったのか」と高飛車に言いました。当時、成家は太夫という位を持って いましたが、上皇の前ではたかが一介の田舎武士です。太夫の位など何の役にも立ちません。上皇は林成家が神妙に平伏 するものと考えていました。しかし、成家の返答は上皇を唖然とさせる意外なものでした。

  「はい、上皇様のおふれは十分承知しております。私は平忠盛の家臣です。今では主人平忠盛の妻となっておりますが、 かって上皇様もご寵愛された女御のお言いつけで小鳥を捕っています。武士のならいとして、家臣が主人の命令に従わない 場合は首を切られてしまいます。私は死ぬのは嫌ですから、たとえ上皇様の掟を破っても、命をとられることはありません。 喜んで上皇様の面前に参上しました」と申したのです。上皇は扱いにくい田舎武士めと、直ちに林成家を京都から追放して しまいました。
  このお話は加藤太夫成家の名で、「故事談」という書物の中に詳しくかかれています。

  成家は加賀の国板津庄に帰って、その子、板津成景とともに板津地区の開発に乗り出しました。

○石川県、小松市御舘町は板津成景の舘跡
御舘の八幡神社   今から約八百年の昔、一人の情け深い武士が、加賀の国板津郷に住んでいました。土地の人は彼をお舘様と呼んでいました。御舘町というのは彼の舘跡にちなんで付けられた地名と言われています。情け深いお舘様とは板津氏の先祖、板津成景(しげかげ)です。
  源平合戦が始まる直前、板津成景は石川郡からここに移り住み、扇状地と言われた荒れた大地を、当時の浪人たちの手を借りて、板津荘を開墾致しました。板津荘の範囲は小松市の梯川より北部の板津地区と言われている地域、寺井町、根上町を含んでいます。
  根上町は源平合戦時の根上松の故事にちなんで付けられました。また近年では、読売ジャイアンツからニューヨーク・ヤンキースに移った松井秀喜選手の故郷でもあります。
  板津成景の住んでいた所からは、仏像や中国銭などが今でも時々発掘されるそうです。 江戸時代、御舘町に銭畑と呼ばれている所から、大量の銅貨が発掘されたそうです。
  御舘町には八幡神社(写真)がまつられており、ここに昔の遺物が奉納されているそうです。
御舘 (石川県能美郡誌より)

  口碑に、往時一介の士ありて、宏大なる舘を造り伽藍に模す、彼れ衆望ありしかば、世人呼びて御舘と称す、其の末路を知らずといえども、今より三百餘年前、舘址にて土民鋳銭数百貫を堀出せりという、其庭中に安置したりしという守本尊の木像は今も神社にあり、御舘区内には西堀、東堀、水洗口、馬場、城門、門出、御庵(おちん)、大島等の名あり、又小塔及墓碑を発掘せることあり。

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