美濃に移住した板津氏の由緒の謎


美濃に移住した板津氏には二つの由緒があることは既に述べたとおりです。
すなわち、利仁流板津姓として加賀より移住して来たというものと、秀郷流伊賀氏の子孫として近江より移住して来たという二つの由緒です。 なぜこのような二つの由緒が存在するのであろう。そこには先祖たちのその時代にふさわしい形で一生懸命に生きてきた証と、先祖の本当の姿を子孫に伝えたい気持ちとが絡み合って出来た結論だと考えています。 それではそのからくりを推論してみましょう。

1.利仁流板津氏の由緒
北条氏が滅亡する直前、北条氏の一族、北条時国が加賀に赴き、ここで板津氏の娘をめとり、板津時奥がうまれ土着します。 加賀の歴史の中で述べた、板津氏の養子とみられる藤原頼胤は北条時国に相当しています。
従って美濃の板津氏は北条流利仁流藤原氏ということとなり、家紋の一つは三っ鱗紋という事になります。 美濃の加茂郡に移住した板津氏が三っ鱗紋を持っているまたは持っていた根拠の一つがそこにあります。
応仁の乱の後、板津氏は美濃へと移住しますが、その原因は一体何だったのであろう。おそらくは加賀における応仁の乱と一向一揆との関連であろう。
以下に板津氏が営々と築いてきた、禅寺の経営と、本願寺蓮如の率いる一向宗徒の台頭により、禅寺が駆逐されていった過程を表にしてみました。

西暦
スペース1
和暦
スペース2
場所
スペース3
歴  史  的  な  概  要
1360 延文五年 勝楽寺 別当藤原頼胤・盛家父子、長福寺の別当尼宗妙に帰依する
1362 貞治元年 勝楽寺 盛家は五段の田地を添えて勝楽寺を大禅寺の住職壁峯(へきほう)和尚に寄進して禅寺とする。
1374 応安七年 能美郡 長野・一針の旧領主(長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等)に対して、 加賀守護富樫昌家がその信頼する重臣富樫一門の英田(あがた)次郎四郎に命じて、 石清水八幡宮の現地雑掌に実力で打ち渡すことを指示している。
1377 永和三年 勝楽寺 盛家(宗昌)はかって勝楽寺を長福寺に売却したが、同じ土地を一貫六〇〇文で売却する旨の売券を書き添えて再度寄進した。
1383 永徳三年 加賀 四月、長野左近将監・板津弥藤次入道子息等は長野・一針・重友等の地頭職の回復を願って訴訟を起こす。
1442 嘉吉二年 勝楽寺 藤原盛家から寄進された勝楽寺の五段の田地(寄進者は板津とある)は長らく不知行であったが、長野昌成のこの年になってようやく安堵された。 この時、細川政元の家臣安富元盛が安堵状を発行している。郡家荘の実質的な支配者は安富元盛となった模様である。
1456 康正二年 加賀能美郡 幕府が諸国所々に内裏造営要脚段銭・棟別銭等を課した。加賀能美郡安富元盛へ勧修寺門跡領群家荘へ五貫文。
1462 寛政三年 加賀 板津親家書状』に「よなみつ村万福寺」とみえる。よなみつとは現在の石川県白山市米光町の事である。
1467 文正二年 加賀 一月、応仁の乱が起こり、たちまちのうちに全国に広がり、戦国時代を迎えるに至った。東軍は細川勝元を、西軍は山名宗全を大将とした。 北加賀半国守護赤松政則は東軍に、南加賀半国守護富樫政親・富樫幸千代・越前国の朝倉孝景は西軍についた。
1467 文正二年 京都 六月、南加賀半国守護富樫政親が東軍に寝返った。十月頃、北加賀半国守護赤松政則が播磨・備前・美作の故地を回復し加賀を去った。 南加賀半国守護富樫政親が北加賀半国をあわせ、加賀守護となった。
1471 文明三年 加賀 五月、朝倉孝景が東軍に寝返り、その褒美として越前守護となった。 六月、越前守護朝倉孝景が、彼に非協力な加賀守護富樫政親に代えて、富樫幸千代を加賀守護にするするよう幕府に進言し、認められた。
1471 文明三年 加賀 七月、蓮如は越前国坂北郡細呂宜郷吉崎に坊舎をたてた。
1473 文明五年 加賀 七月、親鸞が下野国高田に専修阿弥陀寺を起こしたことに始まる高田派の守護富樫幸千代が本願寺派の富樫政親を攻め、政親が越前国に逃げた。
1473 文明五年 加賀 十月、蓮如は「要害を構え、仏法のために合戦すべきである」と公表し、本願寺が富樫政親に味方して、高田派の富樫幸千代と戦う意思表示をした。
1474 文明六年 加賀 七月、加賀国に一向一揆が起こった。十月、一揆勢は蓮台寺城を落とし、加賀守護富樫幸千代を国外に追放した。富樫政親が加賀守護に再任した。
当時の禅僧である妙雲伯升禅師はこの時の状況を次のように述べている。
「ひとりの妄想狂の男が(蓮如)が、一向宗と号して百姓を扇動し、諸宗を排斥し、襲撃して自派にひきいれ、守護の役人を殺し、年貢を略奪している。 その勢いはとめることも出来ない。
「一向宗は、ちょうど蒙元の蓮社の無碍光説の亜流のようなものである。」
1475 文明七年 加賀 六月、一向一揆と守護富樫政親との間に争いがおこった。越前守護朝倉孝景が富樫政親側に参戦してくる気配を悟り、蓮如は逃げるようにして夜間、吉崎から船に乗り、若狭国小浜へと向かった。
1477 文明九年 京都 応仁の乱が終わる。
1478 文明十年 京都 一月、蓮如は山城国宇治郡山科野に新しい本願寺を建て始めた。山科本願寺は蓮如が命をかけて戦った文明六年の一揆の戦勝記念碑だった。 彼のおかげで巨大な浄土真宗本願寺派教団が成立した。
1479 文明十一年 加賀・美濃 渡世難となり、貧窮に暮らさねばならなくなり、板津政継とその子政吉・政次・娘の四人は美濃に移住した。
1488 長享二年 加賀 一向一揆、守護富政親を高尾城に敗死させた。
1489 長享三年 加賀 加賀は一向宗本願寺の領土とみなされるようになり、ここに「百姓の持ちたる国」がうまれた。
1491 延徳三年 加賀 三月から四月にかけて、前管領細川政元・中納言冷泉為広らの馬上一行が越前国へ下向するために加賀国を往復した。 このとき、為広は「為広越後下向日記」を著した。
1537 天文六年 勝楽寺 勝楽寺了順今日免候
1540 天文九年 勝楽寺 就当番之儀、勝楽寺百疋出之、不弁之由申之、如此(下略)
1542 天文十一年 勝楽寺 就当番之儀、安宅勝楽寺樽持来、

上記表より、応仁の乱と一向一揆とにより、加賀で生きる道をたたれ、美濃に移住してきたことが推測されます。
それでは伝承の残っている二つの家(本家と分家)の伝承による由緒の読み下しの一部を紹介しましょう。

由緒1
文保二年(1318年)の北條時国の子息板津平太夫時興から、板津政継までおよそ160年間、加賀に居住した。 時に渡世難となり貧困に暮らしていた。文明十一年(1479年)に阿多見石(祈祷により雨を降らせる石で板津氏にとって大事な石)が大地に埋もれたので(応仁の乱や一向一揆で田畑が荒れてしまったか?)、石川村を出で立ち、西国の霊社霊仏を巡拝しながら関東へ赴く途中、美濃の滝田にて病気となった。 しばらく逗留している間になじみが出来て、親子四人(政継と息子二人と娘)が居住した。
その頃、美濃の守護は土岐成瀬卿であったが、板津氏の由緒を差し出し、源の姓を賜り板津の苗字を続け、郷士として土岐家に仕官し、滝田に居住することになった。
大永三年(1573年)将軍足利義晴公時代に日本国中氏系図お改めの時、由緒を上申した。

由緒2
北條時国の子、板津平太夫時奥から八代後の孫五郎兵衛の時代に、落ちぶれて暮らしていた所、 文明十一年に山津波があって阿多見石が大地に埋もれてしまった。 五郎兵衛は貧困にて渡世難となったために、石川村を立ち退いて、西国筋神社佛閣を巡礼し、関東へ赴いた。 中仙道美濃国太田駅に親子四人(五郎兵衛と息子二人と娘)が寄宿中に病気を患い、居住した。 その間馴染みが出来て文明十三年に太田の住民となった。
大永三年(1573年)将軍足利義晴公時代に日本国中氏系図お改めの時、由緒を上申した。

2.秀郷流板津氏の由緒
板津氏は美濃で土岐家に仕官するに当たり、利仁流北条流板津氏の由緒と秀郷流伊賀氏流板津氏の由緒を準備し最終的には伊賀氏の子孫と称して、仕官しています。 伊賀氏の子孫を称する理由には二つ考えられます。

一つは岐阜城の二代目城主伊賀朝光、三代目城主伊賀光宗の子孫を称することによって、仕官を有利に展開することを考えたのでしょう。更に、すでに述べたように藤原利仁将軍の権威が藤原秀郷将軍の権威に移ったので、伊賀氏の子孫を称したことも考えられます。

もう一つは承久の乱における伊賀氏と板津氏の類似性が考えられます。
承久の乱は京都の六波羅南を守っていた伊賀朝光の嫡子伊賀光季が上皇方の軍に急襲され、虐殺されたことによって起こりました。 これにより、鎌倉幕府は直ちに法王方の軍を殲滅すべく軍を京都に派遣しました。 途中北陸の法王方の軍を殲滅すべく、加賀に向かいました。
この時、板津氏は鎌倉方に、本家筋の林氏は法王方についたのです。 これによって三代目板津小三郎家景は林小次郎家綱に虐殺されてしまいます。 加賀における承久の乱は簡単に勝負がつき林小次郎家綱とその子林弥次郎家朝は鎌倉に移され、殺害されてしまいます。
一方板津家景の父板津景高は地頭の地位を確保し、板津小三郎家景の嫡子長野二郎盛景に地頭を譲渡いたします。 ここで板津氏は長野氏に姓を改めることになります。
板津小三郎家景は加賀の承久の乱の前に虐殺されたのか、それとも承久の乱の戦のさなかに殺害されたのであろうか。 これについては詳しい伝承が残されていません。
加賀の歴史家の多くは、承久の乱直前に殺害された説を採り、これによって加賀は法王方一色に染められたとしています。 つまり、伊賀氏と同じように戦が始まる前に一族が虐殺されたという点で類似しています。
系図の作成者は加賀での板津氏における承久の乱と、伊賀氏における承久の乱との類似性に着目して、先祖たちが承久の乱では鎌倉方にあったことを子孫に伝え、且つ美濃における伊賀氏の権威を巧みに取り入れて、伊賀流板津氏の由緒を作り上げたのかもしれません。
なお伊賀流板津氏の伝承によると伊賀氏は承久の乱に際して三つ鱗紋を拝領したとしていますから、加賀における板津氏は承久の乱にて三つ鱗紋を北条氏より拝領したとも推測されます。
なお伊賀氏流板津氏の系図中には尊卑分脈・太平記・吾妻鏡等の記録が随所に取り込まれており、当時の知識の粋を集めて、系図が作成されていますが、ここでは省略いたします。

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