西暦 |
和暦 |
場所 |
歴 史 的 な 概 要 |
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1360 | 延文五年 | 勝楽寺 | 別当藤原頼胤・盛家父子、長福寺の別当尼宗妙に帰依する |
1362 | 貞治元年 | 勝楽寺 | 盛家は五段の田地を添えて勝楽寺を大禅寺の住職壁峯(へきほう)和尚に寄進して禅寺とする。 |
1374 | 応安七年 | 能美郡 | 長野・一針の旧領主(長野左近将濫・板津彌藤次入道子息等)に対して、 加賀守護富樫昌家がその信頼する重臣富樫一門の英田(あがた)次郎四郎に命じて、 石清水八幡宮の現地雑掌に実力で打ち渡すことを指示している。 |
1377 | 永和三年 | 勝楽寺 | 盛家(宗昌)はかって勝楽寺を長福寺に売却したが、同じ土地を一貫六〇〇文で売却する旨の売券を書き添えて再度寄進した。 |
1383 | 永徳三年 | 加賀 | 四月、長野左近将監・板津弥藤次入道子息等は長野・一針・重友等の地頭職の回復を願って訴訟を起こす。 |
1442 | 嘉吉二年 | 勝楽寺 | 藤原盛家から寄進された勝楽寺の五段の田地(寄進者は板津とある)は長らく不知行であったが、長野昌成のこの年になってようやく安堵された。 この時、細川政元の家臣安富元盛が安堵状を発行している。郡家荘の実質的な支配者は安富元盛となった模様である。 |
1456 | 康正二年 | 加賀能美郡 | 幕府が諸国所々に内裏造営要脚段銭・棟別銭等を課した。加賀能美郡安富元盛へ勧修寺門跡領群家荘へ五貫文。 |
1462 | 寛政三年 | 加賀 | 『板津親家書状』に「よなみつ村万福寺」とみえる。よなみつとは現在の石川県白山市米光町の事である。 |
1467 | 文正二年 | 加賀 | 一月、応仁の乱が起こり、たちまちのうちに全国に広がり、戦国時代を迎えるに至った。東軍は細川勝元を、西軍は山名宗全を大将とした。 北加賀半国守護赤松政則は東軍に、南加賀半国守護富樫政親・富樫幸千代・越前国の朝倉孝景は西軍についた。 |
1467 | 文正二年 | 京都 | 六月、南加賀半国守護富樫政親が東軍に寝返った。十月頃、北加賀半国守護赤松政則が播磨・備前・美作の故地を回復し加賀を去った。 南加賀半国守護富樫政親が北加賀半国をあわせ、加賀守護となった。 |
1471 | 文明三年 | 加賀 | 五月、朝倉孝景が東軍に寝返り、その褒美として越前守護となった。 六月、越前守護朝倉孝景が、彼に非協力な加賀守護富樫政親に代えて、富樫幸千代を加賀守護にするするよう幕府に進言し、認められた。 |
1471 | 文明三年 | 加賀 | 七月、蓮如は越前国坂北郡細呂宜郷吉崎に坊舎をたてた。 |
1473 | 文明五年 | 加賀 | 七月、親鸞が下野国高田に専修阿弥陀寺を起こしたことに始まる高田派の守護富樫幸千代が本願寺派の富樫政親を攻め、政親が越前国に逃げた。 |
1473 | 文明五年 | 加賀 | 十月、蓮如は「要害を構え、仏法のために合戦すべきである」と公表し、本願寺が富樫政親に味方して、高田派の富樫幸千代と戦う意思表示をした。 |
1474 | 文明六年 | 加賀 | 七月、加賀国に一向一揆が起こった。十月、一揆勢は蓮台寺城を落とし、加賀守護富樫幸千代を国外に追放した。富樫政親が加賀守護に再任した。 当時の禅僧である妙雲伯升禅師はこの時の状況を次のように述べている。 「ひとりの妄想狂の男が(蓮如)が、一向宗と号して百姓を扇動し、諸宗を排斥し、襲撃して自派にひきいれ、守護の役人を殺し、年貢を略奪している。 その勢いはとめることも出来ない。 「一向宗は、ちょうど蒙元の蓮社の無碍光説の亜流のようなものである。」 |
1475 | 文明七年 | 加賀 | 六月、一向一揆と守護富樫政親との間に争いがおこった。越前守護朝倉孝景が富樫政親側に参戦してくる気配を悟り、蓮如は逃げるようにして夜間、吉崎から船に乗り、若狭国小浜へと向かった。 |
1477 | 文明九年 | 京都 | 応仁の乱が終わる。 |
1478 | 文明十年 | 京都 | 一月、蓮如は山城国宇治郡山科野に新しい本願寺を建て始めた。山科本願寺は蓮如が命をかけて戦った文明六年の一揆の戦勝記念碑だった。 彼のおかげで巨大な浄土真宗本願寺派教団が成立した。 |
1479 | 文明十一年 | 加賀・美濃 | 渡世難となり、貧窮に暮らさねばならなくなり、板津政継とその子政吉・政次・娘の四人は美濃に移住した。 |
1488 | 長享二年 | 加賀 | 一向一揆、守護富政親を高尾城に敗死させた。 |
1489 | 長享三年 | 加賀 | 加賀は一向宗本願寺の領土とみなされるようになり、ここに「百姓の持ちたる国」がうまれた。 |
1491 | 延徳三年 | 加賀 | 三月から四月にかけて、前管領細川政元・中納言冷泉為広らの馬上一行が越前国へ下向するために加賀国を往復した。 このとき、為広は「為広越後下向日記」を著した。 |
1537 | 天文六年 | 勝楽寺 | 勝楽寺了順今日免候 |
1540 | 天文九年 | 勝楽寺 | 就当番之儀、勝楽寺百疋出之、不弁之由申之、如此(下略) |
1542 | 天文十一年 | 勝楽寺 | 就当番之儀、安宅勝楽寺樽持来、 |
一つは岐阜城の二代目城主伊賀朝光、三代目城主伊賀光宗の子孫を称することによって、仕官を有利に展開することを考えたのでしょう。更に、すでに述べたように藤原利仁将軍の権威が藤原秀郷将軍の権威に移ったので、伊賀氏の子孫を称したことも考えられます。