一、板津一族、美濃・尾張に移住 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

一、板津一族美濃・尾張へ移住
 板津弥藤次入道子息等が室町幕府に旧領の回復を目指して、訴えたのが永徳三年(一三八三)でした。
 加賀に於ける長野・重友領主としての板津一族の足跡は宝暦三年(一四五一)長福寺の記録を最後に消え去りました。 宝暦三年頃、守護富樫家は二派に分かれて、血みどろの内紛を重ねていました。板津一族も富樫家臣団に 組み込まれて内紛に巻き込まれ、戦に明け暮れたのかも知れません。それとも倉光氏のように富樫家臣 団には組み込まれず、将軍家の奉公衆又は細川家の家臣となったことも考えられます。
 最近になって寛政三年(一四六二)現在の石川県白山市米光町に「よなみつ村万福寺」が所在してい たことを記した『板津親家書状』が発見されました。このことは板津氏が富樫氏の家臣であった可能性や、 移住が石川郡から行われた可能性も有るが、もう少し調査しなければなりません。
 板津氏は応仁の乱が終わった文明十一年(一四七九)に父と息子二人に娘一人の四人家族で美濃の加 茂郡に移住してきました。これには近江から移住して来た、加賀の石川郡から移住して来 たという二つの伝承が有ります。長男が滝田板津氏の祖に、次男が万場の板津氏の祖に、そして女子が大県神社 の神主重松家に嫁ぎ、そこから母方の姓を名乗って楽田の板津氏の祖になったと推定されます。
 また、ほぼ同時期に蛭川村の田原に板津氏が移住してきました。蛭川村史によると、永正七年(一五一〇) 板津成景の子定慮が移住してきたというのです。そして定慮の子若狭守貞久の名が長享元年(一四八七) に書かれた今洞白山神社の「白山神社建立開暦之覚」という古文書に記載されています。移住の時期と 古文書の時期とが異なっていて、年号に矛盾があり、しかも定慮が板津成景の子という誤った記載が ありますが、定慮とその子貞久の移住時期は滝田板津氏とほぼ同時期と考えて良いでしょう。
 こうして加賀の板津氏の歴史から約七十年間が板津氏の歴史のブランクとなっています。このブラン クを埋める歴史資料は残念ながら今日まで発見されていません。
 戦国時代になりますと、織田弾正左衛門に仕えた板津正平、前田氏に仕えた板津了甫、森氏に仕官した 板津勝五郎・板津市右衛門などが古文書に記録されている。さらに池田氏に仕えた板津善右衛門藤原 休ト、土岐(田原)左衛門尉頼吉に仕えた板津兵右衛門尉源頼光が家伝書に記録されています。
 一方、永禄八(一五六五)年八月二十八日の堂洞合戦の時、美濃の加治田の勇士として板津一族の白江庄右衛門が見られます。板津氏と分家した白 江氏が隣り合う村に居たという事から、板津氏と白江氏は共に美濃へ移住した可能性が高いでしょう。
 一方加賀の隣国若狭において、天文九年(一五四〇)若狭の湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流 れて来た御神体を拾い上げ三国神社の正智院に納めたという事実があります。蛭川村の板津貞久は若狭守 と名乗っている事を勘案しますと、板津氏は加賀から直接移住したのではなく、一旦若狭に根を下ろし てから、一族の者を一部残して美濃へ移住したのかもしれません。美濃の板津氏には戦国時代半ばにも 移住してきた伝承が残されています。板津清兵衛の存在は、美濃への移住が二段階に行われたことを裏 付けているように思われます。
 武家に仕官しなかった者の殆どは農民となりました。しかし、正式な書物に対し、農民には姓が記され ていないこともあって、農民としての板津氏の歴史を解明する事は、詳しい系図と突き合わせしない限り、極めて難しいのです。
 文明十一年以降については信憑性の高い伝承や記録がありますが、それ以前の伝承は伝説とも云うべき 内容と考えられます。伝承は個人の家の拠り所として、代々語り継がれて来た歴史があります。事実を明ら かにする事は、こうした伝承の一部を否定する事になりましょう。しかし、先祖の本当の生き様を知 る為に、事実を明らかにして伝承の一部を否定する事も必要と考えられます。この章では伝説と思われ る伝承も知りうる限り記述しました。歴史的な事実として疑問と考える箇所に、筆者がコメントを付け加 えましたので、参考にしていただきたいです。更に、伝説部分については、その当時知りうる情報をもとに、 先祖達が必死の努力で創意工夫をこらして、これを作り上げた跡を見て頂きたいのです。そして伝説と思わ れる部分にも真実が隠されていることを読みとって頂きたいのです。
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