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澤潟四郎

●目次(各項目をクリックして御覧下さい)
1.美濃國滝田郷へ移住
2.板津兵右衛門と土岐頼吉(田原左衛門尉頼吉)
3.田原左衛門尉頼吉の実像と虚像
4.白江権左衛門(喜左衛門又は庄右衛門)
5.天猷玄晃和尚
6.織田軍団の池田氏・森氏家臣としての板津氏

1.美濃國滝田郷へ移住
板津成景より三百年後、板津彌藤次入道子息より約百年後の応仁の乱が終わった直後、板津氏は美濃に移住してきました。移住に関する由緒は二種類伝承されています。一つは加賀 から移住してきたというものと、もう一つは近江から移住してきたというものです。なぜこのようなことが起こったのか考えてみますと、戦乱の歴史が続き、由緒が焼失して しまった事が考えられます。加賀板津氏の系図は初代板津成景と二代目景高、三代目家景しか、公知になっていません。このため、移住してきた時代までの約二百年間の記録がブラ ンクになっていましたから、正確な由緒が作れなかったのでしょう。
もう一つの理由は、美濃という地に移住して来たので、美濃で由緒ある家の名跡を継ぐ必要に迫られたことも考えられます。事実近江からの移住した由緒では、秀郷流藤原氏である 伊賀氏の子孫を名乗っています。伊賀氏の初代・伊賀朝光は岐阜城の二代目城主であり、その子の光季もまた三代目城主、光季の弟・光宗も四代目城主、 その弟・稲葉光資もまた五代目城主でした。名門、伊賀氏の子孫を名乗る事によって仕官を有利に展開しようとしたのかもしれません。
それでは近江から移住してきたという由緒を紹介しよう。
瀧田板津氏の先祖政継と政吉、政次の親子兄弟三人(加賀からの移住してきたという伝承では娘一人を加えた四人)は文明十一年(一四七九)六月、故郷の蒲生を出で立ち、 神社佛閣を巡拝しながら東国の美濃に向かいました。途中谷汲山や不破郡垂井町の南宮神社などに立ち寄っています。この神社は鵜沼の南宮神社(現在の村国真墨田神社)とも考えられます。
神社仏閣を巡拝した目的は一体何でしょうか。確証は有りませんが、五山の僧侶達が美濃に移住したのと同じように、神官職や仏職を求めて移住したのでしょう。さて移住してきた 政継ら親子はとにかく美濃に落ちつきました。そして最終的に嫡男政吉は加茂郡滝田郷の三本木という所に居住し、次男政次は同郡大田郷万場に居住しました。万場板津氏はその後古 井板津氏、今泉板津氏を派生させたと云います。三本木という地名は今日失われていますが、正保三年(一六四六)の検地帳に見られる地名です。次の文は家伝書の一部です。

応仁年間より乱世打続き、京都近国で騒動が起こった。加えて凶年飢饉と成り、文明四壬辰年の夏、餓死者が路に満ちていた。長途の飢渇きに貧困が窮まり渡世難成り。 文明十一年己亥六月、近州蒲生郷を出で立ち、神社仏閣を巡拝しつつ東国に趣向した。美濃の国南宮神社や谷汲山など遍歴し、加茂郡滝田郷三本木という所に移住す。次男政 次は同郡太田郷万場に居住す。

滝田板津氏は移住後土岐家をたよって来た形跡があり、源氏の姓を名乗ることを許されましたが、結果的には郷士として受け入れられたと思われます。

2.板津兵右衛門と土岐頼吉(田原左衛門尉頼吉)
板津政吉の子、板津兵右衛門尉源頼光は天文元年(一五三二)の頃、濃州猿啄城の城主土岐頼吉の軍師として、福地太郎右衛門之尉等と共に斎藤八郎左衛門俊直(利直)のこもる小 野山合戦において比類無き働きをしました。時の人狂歌を作り
小野山に歴々人が集まれど
板津兵衛に勝る者なし云々
と讀みました。
さてここで云う猿啄城主土岐頼吉というのは土岐氏支流の田原左衛門尉頼吉のことです。従来、「新撰美濃志」などにより田原左衛門尉頼吉が猿啄城を一五三〇年に築城したものであると 信じられていました。しかし近年発行された関市「竜泰寺史」によると、田原左衛門尉頼吉は嘉吉元年(一四四一)猿啄城主であった西村善政を殺害して城主になったといいます。これにより田 原左衛門尉頼吉は九十年以上も昔から猿啄城主であった事になります。ところが、最も古い史料の「山田右馬之尉正澄由緒の写」には「田志見(田治見)ノ城主修理大夫頼吉」と記載されていて、 これには田原左衛門の文字は見られません。さらに堂洞軍記が書かれた後(西暦一七〇〇以降)に書かれた「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」になって初めて嘉吉元年の年号が追加され、田原左衛門尉頼吉 が猿啄城主になったと有ります。時代検証されないまま「田志見(田治見)ノ城主修理大夫頼吉」が「田原左衛門尉頼吉」にすり替えられたと考えられます。「新撰美濃志」や「滝田板津氏の記録」 から考えて、嘉吉元年の田原左衛門尉頼吉の存在は疑わしく、「竜泰寺史」の記録は誤記でしょう。これについては次項「3.田原左衛門尉頼吉の実像と虚像」で詳しく検証します。

一方、斎藤八郎左衛門利直(宗祐、宗久)についての記録も大変少ない。「新撰美濃志」には小野山城は天文二十三年(一五五三)落城し、廃城になったと記載されています。なお享禄 元年(一五二八)に廃城になったと云う記録もあります。

斎藤八郎左衛門城、在村北、 呼曰小野山、 里民云、天文廿三年城陥爲廢、然失 傳記而今不知、此山東属神野 東属上有知 南一面属小野、 然鄰邑呼爲小野山一名 大山
濃陽志畧(天正を天文に訂正)より

いずれにせよ、今日極めて歴史史料の少ない、田原左衛門尉頼吉と斎藤八郎左衛門という人物に板津兵右衛門が直接的・間接的に関わり持ったという事は地方史にとって貴重な史料を 提供するものです。しかも田原左衛門尉頼吉が小野山城を攻めたというのは新しい発見でもあります。
板津兵右衛門は滝田に戻り、境内に守り本尊の虚空大菩薩(虚空蔵大権現)を観請しました。虚空蔵大権現は星宮神社の祭神となり、滝田橋(通称板津橋)北方百メートル程の道西の田 の中に祀ってありましたが、昭和四十年、耕地整理で稲荷神社に合祀して今日に至っています。虚空蔵大権現は五穀豊穣の神として、また板津一族の氏神として信仰されて来ました。なお虚空蔵 大権現というのは白山信仰の御神体であります。
板津兵右衛門は板津外記尉源政光と改名し、天文十八年巳酉年八月十一日に卒去しました。法号を一玄要三禅定門と云い、導師は若き天猷和尚でありました。その後、家伝書には武士として の記録はみあたりません。この時代の記録は直系だけの所があって、傍系の事はよく解りません。
板津兵右衛門が卒去した二年前の天文十六年(一五四七)一月四日、田原の家臣、土岐氏流の多治見修理は田原左衛門尉頼吉が祖母の法要で大泉寺へ出かけた隙に猿啄城を奪取しました。

以上が滝田板津氏の戦国時代の歴史であります。なお板津兵右衛門が天文元年(一五三二)に小野山城を攻めた記録、多治見修理が天文十六年(一五四七)に猿啄城を奪取した記録、板津 兵右衛門が天文十八年巳酉年八月十一日に卒去した記録を勘案すると、小野山城が廃城となったのは天文二十三年よりもずっと前の天文元年(一五三二)と考えるのが妥当でしょう。
この後、猿啄城は永禄八年(一五六五)に織田信長に攻略され、城名を勝山城と改められました。

永禄八年(一五六五)以降の戦国時代、美濃は織田信長軍団に侵攻され、伊木城、鵜沼城、猿啄城、蜂屋の堂洞城、関城などが落城しています。滝田は蜂屋の堂洞城へのルートに近く、 堂洞城戦で人馬に蹂躙されたものと考えられます。「富加町史」によると、滝田法源寺が管理する阿弥陀庵の南に「みろく」という小地名があり、ここにみろく塚があったと伝えます。これ は弥勒寺の跡で、この寺は堂洞城戦で焼けたと伝えます。

碑文(富加町史 史料編より引用)
古来此處有一古墳環墳 皆田也 名其田云弥勒 又云伽藍 實遺跡平所 以石刻弥 勒尊一躯 以奉 安置于墳上者也
 功徳主 板津喜兵衛勝吉
 濃州加茂郡滝田村
 正徳元歳辛卯十一月五日

3.田原左衛門尉頼吉の実像と虚像
我が二代目先祖板津兵右衛門尉源頼光が天文元年(一五三二)の頃、濃州猿啄城の城主土岐頼吉の軍師として、福地太郎右衛門之尉等と共に斎藤八郎左衛門俊直(利直)のこもる小野山合戦において比類無き働きをした事は「戦 国時代の滝田板津氏」の項で述べたとおりであります。
土岐頼吉すなわち田原左衛門尉頼吉は「竜泰寺史」によって、その実像がゆがめられてしまったきらいがあります。
そこで田原左衛門に関する諸記録、文献を紹介し、考察を加えて実像に迫ってみることにします。

1〔美濃明細記〕  勝山古城の項
「もと田原左衛門居之、道三の旗下也……」

2〔加茂郡誌〕 猿啄城跡の項
「坂祝村勝山の西方にあり、享禄三年田原左衛門此に城を築き居住……」
「田原左衛門は田原村の住人なり、戦国時代の末に猿啄城(現坂祝町勝山)を築きて居住しけるが……」

3〔新撰美濃志〕 勝山村の項
「……猿啄城跡は村の西にあり。田原左衛門が初めて築き・…:此城もとは田原左衛門築之居住・…:田原此城に十七 年在城しけるとかや。……」

4東田原村の項
「東田原村は西田原の東にあり、『御料六百四十七石一斗四升』『田原尾張守頼郷』は土岐系図に『左京大夫頼益の弟 にて賀茂郡田原住』と見えたり。ここの人か又西田原の住人か今知りがたし。又安土創業録に『田原左衛門猿啄(今の 勝山)の城を築きて居住したり』しよしいへるもここの人なるべし。」

等の記載がある。
注目されることは、田原左衛門が田原村の出身であり、美濃国第六代の守護土岐頼益の系譜にあるこ ととする新撰美濃志の記載があること、また、美濃明細記によれば田原左衛門は斎藤道三の旗下にあると述べていることです。
これを要約すれば、「享禄三年(一五三〇)に初めて城を築き、田原左衛門が此城に十七年在城した」という事になります。
しかし田原左衛門尉頼吉は「竜泰寺史」によって、その実像がゆがめられてしまったきらいがあります。以下これについて 詳細にその根拠を示そう。

「猿啄城史」に「竜泰寺史」の記録が残されていますが、「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中の一部を下記に示そう。

「・・・・コレ時ニ応永十五年正月九日ナリ。善政、正澄相共二補陀寺ニ登ッテ、無極和尚ニ伸年ノ儀及ビ落成ノ賀ヲ請ヒ大斎会 ヲ設ケル等禅法ヲ尊宗スルコト最モ到レリ、コレョリ毎歳定例ヲ設ケテ祝斎ヲナス。然ルニ同国ノ田志見(田治見)ノ城主修 理大夫頼吉猿喰城ヲ攻ム、共ニ防戦スルト云エドモ城中ノ兵疲労シテ、コトゴトク討死シ、城主モ亦没落ス。時ニ善政公深ク 矢疵ヲ負イ、正澄卜共ニ兵ヲ収メテ土田邑ニ退ク時、頼吉ノ大勢後ヲ追ッテ来ルヲ以テ、正澄反戦スト雖モ残兵疲労シテ過半 討死ス、善政コノ時自殺シ、・・・・」

さらに「竜泰寺史」の中の「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」という史料の末尾に「堂洞軍記に詳也」という記述がある事から、 この史料は堂洞軍記が書かれた西暦一七〇〇年頃以後に書かれたもので、その中に次の如く示されています。

猿喰城主西村豊前守善政嘉吉元酉年正月九日月江之時詣テ大泉寺隋例設大斉會時田原左衛 門尉頼吉隔吉末木曽川及一戦善政終為頼吉被害民家山林焼失干時江辞猿喰帰龍泰寺此夜龍泰寺茂亦為兵火焼失宝徳三年龍泰寺又 再為兵賊諸堂不残焼失是時月江嘱華叟有板東之行有古證頼吉居城末畿戦多治見修理死又永禄八丑年織田信長公攻勝多治見修理初 軍よ」と悦ビ改猿喰為勝山右猿喰者今勝山是成其後城主川尻肥前守相続帰衣大泉寺干今両家古老者古屋敷と称し大泉寺左右。現 存依知大泉寺者為猿喰之城中由緒大泉寺縁起伺堂洞軍記ニ詳也

「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中で修理太夫頼吉が西村豊前守善政を撃ったとありますが、 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」では田原左衛門尉頼吉が嘉吉元年(一四四一)に西村豊前守善政を撃ったとなっています。 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」が書かれた当時、すなわち西暦一七〇〇頃以後には田原左衛門尉頼吉は公知となっていただろうから、 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の作者は「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中の修理太夫頼吉田原左衛門尉頼吉に重ね合わせて、 あたかも嘉吉元年(一四四一)に田原左衛門尉頼吉が西村豊前守善政を撃ったと錯覚してしまったのでしょう。

問題は嘉吉元年(一四四一)から二六〇年以上も経過した西暦一七〇〇年頃以降に書かれた史料の信憑性だが、五〇年も先の事を 正確に覚えていることすらおぼつかないのに、作者が生まれていないはるか二六〇年以上も前の時代の事を何らの確証もなく、真実 を以て書くことは出来ない。従って田原左衛門に関する「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の記事の歴史的な価値は全くないと言って よいだろう。
更に付け加えるならば、一般的に左衛門を代々襲名することは有っても、例外があるかもしれませんが頼吉なる名を代々襲名す ることありません。従って、嘉吉元年(一四四一)の田原左衛門尉頼吉が代々田原左衛門尉頼吉を名乗って享禄三年(一五三〇)まで 連綿として続いてきたとは考えられません。このことからも田原左衛門に関する「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の記事の歴史的な 価値はないものと考えざるをえません。

以上精査したように、享禄三年(一五三〇)の田原左衛門尉頼吉は実像であっても、嘉吉元年(一四四一)の田原左衛門尉頼吉は 虚像であります。

次に猿啄城を追われた田原左衛門のその後はどうなったのであろう。
これについては「家系大辞典」の田原の項に詳しく述べられています。出典が明らかではありませんが、おそらく棚橋家の家伝書に基づいた記述でしょう。

タハラ條第六項に載せたる猿啄城主田原左衛門尉の後にして、田原秀郷の裔と伝ふ。その系図に「濃州猿喰城主、(本国紀州) 藤代、藤原姓俵左馬允、信長の為に没落せしめられ、一門家子・悉く討死す。此時、信長・猿喰を勝山と改む云々。紋・上り藤の 丸の内三ツ頭左巴也」と載せ、又補陀落山記に「猿喰城主田原左衛門尉云々」と。此の流・何によりて棚橋と称せしや詳かならず、 されど或は前項氏と関係あらんか。其の発祥地紀伊藤代は、足助城主鈴木氏の起りし地なればなり。
左衛門に三子あり、棚橋弥次左衛門朝清、同新五左衛門朝光、與惣左衛門朝家、これ也。朝清の裔は遠山藩に仕へ、朝家の裔は 徳山毛利藩に仕へ、後京都に出でゝ、町奉行與力たり。棚橋琢之助氏は其の裔也。

此についての論評を差し控えますが、我が家の伝承では田原左衛門尉頼吉は土岐姓であるから、藤原姓の田原左衛門尉頼吉とは 明らかに伝承に差異があります。

4.白江権左衛門
戦国時代、滝田の隣村である加治田に板津氏の分家である白江氏が移住していました。同族の板 津・白江の二氏が滝田と加治田の至近距離に居住していたということは、単なる偶然とは考え られません。確証はありませんが、応仁の乱後に板津・白江の二氏は統一行動をとって加賀より移住し たのではないでしょうか。
美濃の加治田の勇士、白江権左衛門(喜左衛門又は庄右衛門ともあり)は南北山城軍記、堂 洞軍記、永禄美濃軍記などに、見えます。
白江庄右衛門が文献上、最初に登場するのは永禄八(一五六五)年八月二十八日の堂洞合戦であ ります。信長方にあった加治田の城主・佐藤紀伊守の家臣として活躍しました。この年の九月一日に関 城主長井隼人道利が、加治田の不信をなじって攻めたのでこの戦が起こったのです。信 長は佐藤紀伊守からの援軍申し入れによって、齋藤新五に兵五百を与えて加勢させました。この戦 で佐藤紀伊守の嫡子佐藤右近右衛門は遂に討死しましたが、齋藤新五の加勢により関勢を追い払うことが出来ました。
この年、佐藤紀伊守は家督を養子の齋藤新五に譲り、永禄十年、伊深村に隠居しました。天正十 年、明智光秀の本能寺の変によって、齋藤新五が討死にしましたので、加治田の城は齋藤新五の叔 父齋藤玄蕃頭に預けられました。
兼山の城主森武蔵守長一が京都の乱世に乗じて、加治田の城を奪おうと兵を差し向けました。 これが兼山加治田取合軍です。このとき白江庄右衛門は加治田方の勇士として活躍し、兼山 方の豪の者・真屋新助の首を討ち取りました。そして、城主齋藤玄蕃頭より行光の脇指と感状とを賜わりました。
その後、城主齋藤玄蕃頭が死去して統率を失い、白江庄右衛門は兼山城の森氏に仕えました。天 正十二年(一五八四)、白江庄右衛門は長久手戦に参加し、家康の本陣に突入し討死しました。このと き森武蔵守長可、池田信輝も討ち死にしています。遺骸は滝田村の隣村大山齢峯寺に持ち込み、 天猷和尚を導師として葬儀を行いました。
現在加治田はもとより岐阜県界隈には白江氏は存在しません。子孫、移住したと思 われます。豊臣秀吉に仕えた林悦は子孫かも知れません。

5.天猷玄晃和尚
板津兵右衛門が天文十八年巳酉年八月十一日に卒去した時の導師は若き天猷和尚であったの は既に述べました。この和尚には当時の多くの武将達が帰依しています。
ここで天猷和尚と池田信輝との関係を述べます。池田信輝は天猷玄晃和尚に帰依すると ころが深かったのです。信輝が鵜沼にいた時期は永禄十年(一五六七)のことであり、帰依したのは ちょうどこの頃と思われます。
天正十二年(一五八四)、信輝は長久手の合戦で戦死しましたが、遺言により遺骸を、滝田村の 隣村大山齢峯寺に運び、葬儀を行い天猷玄晃和尚の焼香を受けました。現在竜福寺には池田信輝の 遺品として槍・鞍・鐙・轡が所蔵されています。池田家と天猷玄晃和尚との関係は深く、寺の日 供帳によると、九日の命日には信輝と嫡子之助の供養が行われていました。
天猷玄晃和尚は春江派の中興というべき僧であります。永正十五年(一五一八)尾張水野郷 (現瀬戸市)の生まれで、早くから出家して諸所をめぐって修行、ついで蘭和尚に師事して研 鑽、天文十八年(一五四九)三一才の時印可とともに道号天猷と受けました。それから関倉知の竜 淵寺(後福源寺と合弁)を開き、梅竜寺八世の住職となりました。永禄五年(一五六二)犬山内田 の瑞泉寺に一時入寺しました。永禄十年(一五六七)には加治田城主佐藤紀伊守忠能が菩提寺とし て竜福寺を創建するにあたり迎えられて開山となりました。のち天正年間には滝田板津氏の菩提寺 福源寺(現法源寺の前身)の開山となりました。また妙心寺に輪住し、慶長七年(一六〇二)二月 二一日妙心寺塔頭護国院で示寂、八四才、諡号大徹法源禅師。
天猷玄晃和尚と福源寺、福源寺と滝田板津氏、それに天猷玄晃和尚と池田氏、池田氏と楽田 板津氏という関係があった事は歴史的な事実であります。この様に見ると、池田氏と楽田板津氏と が主従関係を持つに至った鍵は天猷玄晃和尚にあるように思われますから、滝田板津氏と楽田板 津氏の間には何らかの関係があったと考えられます。これについては楽田板津氏の項で考察してみましょう。

6.織田軍団の池田氏・森氏家臣としての板津氏
信長軍団の池田・森氏の家臣の中に板津氏が見られますので、この地方と池田信輝および森武 蔵守長可との関係を述べてみましょう。
信輝は天文五年(一五三六)に生まれましたが、「関市史」によると、天文十一年(一五四二) に、志津野城(滝田に近い所)を築城し、この年鵜沼に移ったと書かれています。「濃飛偉人伝」では父 恒利の事と記載されています。信輝の家臣として楽田出身の板津善右衛門がいたと云います。これに ついては後に詳しく述べる事にしましょう。
天正十年(一五八二)の加治田合戦後、この地方は森武蔵守長可の支配下に入りました。慶長五 年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で板津庄五郎が上杉軍との対陣に戦功をあげました。板津庄五郎は 慶長九年(一六〇四)の美作国勝南郡の検地帳にも見えます。更に下って元和元年(一六一五) の大阪夏の陣では板津市左衛門、板津庄五郎の二人が数人の配下を従え参陣して首級をそれぞ れ一つ得ています。更に、大阪夏の陣には板津六右衛門の代人として彦八という者が板津姓で出 陣したと言い伝えます。板津市左衛門と板津六右衛門は別人のように見えますが、字体からして、 同一人物とも思えます。

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