三、戦国時代の万場板津氏 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

太田万場にも板津姓は多いです。かっては由緒が残されていたようですが、現在は古い資料 が見あたりません。滝田板津氏の伝承によれば、文明十一年(一四七九)滝田板津氏の初 代政吉の弟政次が万場に居住したとあります。一方、万場板津氏の分家である今泉板津氏の 伝承によれば、文明十一年加賀を離れ、太田に寄宿し、文明十四年に初代時範が太田の 住民となったとあります。この伝承は滝田板津氏のもう一つの由緒と全く同じです。
滝田板津氏の伝承によると、政次の嫡男九兵衛光定(今泉伝承では時定)は永正年中 (一五〇四〜二〇)合戦のため京都に度々出張していましたが、後になって禅門成常泉と号 したとあります。合戦のための京都出張というのは一体何を意味するのでしょう。
永正年間は第十代将軍であった足利義材と第十一代将軍義澄との抗争、及び細川宗家 の跡目相続に絡んだ内紛とが重なって、京都界隈では度々戦が起こっています。主な出来 事を拾ってみますと、下のようになり、実に多くの事件が発生していた事が分かります。

◎延徳元年(一四八九)
足利義視・義材父子は美濃を立ち入京する
◎延徳二年(一四九〇) 足利義材・征夷大将軍となる
◎延徳三年(一四九一) 足利義材六角高頼征討の途につく
◎明応元年(一四九二) 六角高頼敗走す
◎明応二年(一四九三)
三月細川政元が足利義澄を擁立して将軍義材に反乱
◎明応二年(一四九三)
四月将軍義材は細川政元に降伏し将軍を解任さる
◎明応二年(一四九三)六月足利義材は逃れて越中に赴く
◎明応七年(一四九八)
足利義材・越中を出発し朝倉館に入ります。名を義伊に改めます。
◎明応八年(一四九九)七月足利義伊、近江の坂本に布陣
◎明応八年(一四九九)
十一月足利義伊、河内に敗走、周防の大内義興を頼る
◎明応九年(一五〇〇)
足利義伊、肥後・薩摩の國人に内書を送り、活発な上洛運動を展開します。
◎文亀二年(一五〇二)
細川政元、九条政基の子を養子に向かえ澄之を名乗らす
◎文亀三年(一五〇三)
五月細川政元、細川成之の子に宗家を継がせ澄元を名乗らす
◎永正三年(一五〇六) 細川澄元が上洛し、細川澄之と対立抗争
◎永正四年(一五〇七)六月細川政元、殺害さる
◎永正五年(一五〇八)四月足利義尹、大内義興に擁立され上洛の途に
◎永正五年(一五〇八)六月足利義尹、大内義興と共に入京、将軍に復帰
◎永正六年(一五〇九)六月足利義澄、細川澄元、京都侵入を試み、失敗
◎永正八年(一五一一)五月足利義澄、再度入京を目指す
◎永正八年(一五一一)八月足利義澄、近江にて病死
◎永正十年(一五一三) 足利義尹、義稙と三度改名
◎永正十四年(一五一七) 大内義興、領国平定のため山口へ帰る
◎永正十六年(一五一九) 細川澄元入京
◎大永元年(一五二一) 足利義稙、征夷大将軍を解任される

九兵衛光定が抗争に巻き込まれたのは、板津氏が細川家または将軍家と関係があっ たからでしょう。古井・本郷板津氏は足利将軍家と関係があったとの伝承があり、 滝田板津氏の伝承とも合い通ずるものがあります。加賀国任田郷勝楽寺の五段田を安堵した 細川家家臣の安富元盛と板津氏とは何らかの関係があって、それが後の時代まで継続 されたのではないでしょうか。
また光定の曾孫平兵衛が幼少であった時に大阪夏の陣が起こり、歩兵を募ったとこ ろ佐右衛門次なる人物が現れたとあります。その後の資料は途絶えていますが、西暦一七〇 〇以降の系譜は「中山道太田宿に生きた人々の系譜」に記載されています。この一族の 家紋は「丸に三つ鱗」、宗派は妙心寺流臨済宗です。なお太田曽利目には「丸に桔 梗」の紋を持つ板津氏が居住していますが、本姓は藤原姓兼松氏であると言います。この兼 松氏は信長軍団の家臣の子孫と考えられます(信長の中濃作戦)

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