四、戦国時代の蛭川板津氏 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

蛭川村板津氏の歴史を「蛭川村史」等を引用して述べてみよう。
1.親王伝説の中の板津氏
板津氏は蛭川村の親王伝説に出てくる。親王伝説では親王に供奉した重臣を、四家七党 あるいは四家七名字・七名家などと云っている。親王が東濃へ足を運ばれたときの従者を 四家といい、今村・不破・板津・林の四家とした。また七党は藤原茂成・和田政忠・小池 彌藤太・曽我幸保・纐纈義弘・逸見十郎朝貞・二階堂政高である。以上が伝説による四家 七党であるが、この四家の中に板津氏がある。
さてここで親王伝説について「蛭川村親王伝説」を引用して若干の解説を試みよう。
この村、また付近の村々にわたって古くから親王様に関する言い伝えがある。しかしそ の内容は「むかしこの村へ親王様が来られて、ここに住んでおられたことがあったらしい。 今洞の親王塚はその墓だという話だ」くらいの認識しかないのである。
大正の末、鎌倉建長寺の今井福山師を中心に史跡調査が進められ、また恵那郡史や笠木村誌が出て、尹良親王の御名が始めて口にされるようになった。 そのころから蛭川へ来られた親王は、宗良親王と尹良親王であらうという認識ができあがったが、それも村民の中で一部の人に限られていた。史跡調査から年を経た今日ではその認識も薄くなって来ている。
史跡調査の結果は「蛭川村伝説集」としてまとめられたが、年号や文献公証に欠け、史家の間にも異論があった。「蛭川村史」の編纂にあたり、親王伝説を調査したが紙面の都 合でその一部を載せただけで、ほとんど割愛したいきさつがある。よって親王伝説を別冊の「蛭川村親王伝説、付録蛭川村史跡伝説」として希望者に分かつことになった。

2.加賀板津氏の後胤と言うが
蛭川村の板津氏は加賀板津氏の子孫であると伝承している。板津氏の伝承による家系を見ると太祖は藤原鎌足で、不比等、房前と続き、房前の子の真楯より分かれ、更に良門をへて中祖成 景に到る。成景は石川県能美郡板津郷に住み、始めて板津を称した。永正七年(一五一〇)成景の子定慮(豊後守)は加賀白山、白山姫大神を奉持して、濃州加茂郡今村(今洞)に 移住したと伝う。その当時の板津氏の家系を「蛭川村史」に従って抄記すると次のようになる。

蛭川系図

だが加賀において板津成景が活躍したのは鎌倉初期(一二〇〇頃)であるから、永正七年(一五一〇)に移住した定慮が成景の子には成り得ない。更に板津成景は藤原良門の後胤ではない。
このように蛭川村の板津氏の伝承に史実とは異なるものが散見するが、火災によって歴史史料が消失したことや、他国に移住した場合には自分を売り込むためにあえて、出自を偽ることが行われていたのである。
一方、加賀板津氏の歴史が明らかにされたのは近年になってからで、こうした状況を考えると、伝承に曖昧さがあるのはやむを得ないだろう。美濃に移住した周辺板津氏の伝承など総合的に考えると、蛭川村の板津氏は加賀の板津成景の後胤であることはほぼまちがいないだろう。

3.白山神社と板津氏
この様に蛭川板津氏の系図は移住前が疑わしい。しかし、美濃や尾張に移住した板津氏の中で、蛭川板津氏は系図以外の最も古い古文書に記録を残している。定慮の子若狭守貞久の 名は今洞白山神社の「白山神社建立開暦之覚」という古文書に

白山神社建立開暦之覚「蛭川村史より引用」
一、上棟濃州加茂郡安弘見郷今村、白山御社壇上葺、
檀那藤原朝臣板津若狭守貞久並ニ鍛冶浄心、大工藤氏
久宗、干時長享二巳酉年文明十九ニカワル、
慶長元戊申年十月三日謹誌之

とある。文中の「文明十九ニカワル」は文明十九年は長享元年(一四八七)に改元された事を意味し、それから約百年を過ぎた慶長元年(一五九六)にこの記録を書いたという事であ る。干支に誤りあるも原文のままとした。
初代定慮の移住以前に貞久が白山神社の棟札に名をつらねているという事は奇異であるが、これも「蛭川村史」の記述をそのまま使用した。
さらに天文十二年(一五四三)の再建の記録には、

白山神社再建の記録(蛭川村史より引用)
一、上棟濃州加茂郡安弘見郷今村白山神社壇上葺、
檀那藤原朝臣板津与十郎吉継願主也敬白
天文十二年癸卯九月二十八日

とある。貞久と吉継については「蛭川村の親王伝説」に今村神社創建当時の明徳元年(一三九〇)に献納した鏡に板津若狭守貞久の名があるが、その貞久には男子無く、鈴村家の孫鈴村権 左衛門の次男が貞久の娘へ養子して板津与十郎吉継と称した。鈴村の祖先も板津氏も加賀の産で、白山神社を崇敬したこともあり、この縁故もあったことが思われる。
また「蛭川村史跡伝説集」に

明徳元年この神社を勧座した者は板津貞久で、其後長享二年(一四八八)社神を修繕した時の棟札にも板津与十郎輝久の名がある。

とある。
今村神社は後に白山神社と呼ばれるようになったが、白山神社の創建は「白山神社建立開暦之覚」によると長享元年であり、「蛭川村の親王伝説」や「蛭川村史跡伝説集」にある明徳元 年は明らかに間違いであろう。何となれば一人の人物が百年以上生きたことになるからだ。また「蛭川村史跡伝説集」には白山神社の再建は長享二年とあるが、「蛭川村史」にあるように 天文十二年が正しいと考えられる。
更に「蛭川村史跡伝説集」や系図には、白山神社の再建者は輝久となっているが、「蛭川村史」にある白山神社の再建記録による吉継が正しいと考えられる。「蛭川村親王伝説」には貞 久の子は吉継とある事はすでに述べた通である。しかし白山神社が再建されたのは「蛭川村史」に記載されているように建立から五六年後であるから、貞久の子を吉継とすると五六年は説明がつかない。従って、 「蛭川村史」の系図の通り貞久の子が輝久と考えれば、吉継は貞久の二代後となり、五六年の間隔は矛盾無く説明出来る。火災により記録が消失した事もあって、蛭川村板津氏の伝承や記 録には、矛盾を含むので、しかるべく判断しないと、史実を誤って理解する危険がある。
板津貞久がこの村にあった事を証する白山神社の棟札の年号長享元年(一四八七)から現在まで約五百年、板津を称するものは現に五戸を数えるばかり、名門といいながら、土豪ともい うべき勢力権門の人物ではなかったかもしれない。後にこの地に土着した不破とともに、白山神社を崇拝し、当時職業上特権のあった紺屋の業を分けあって、不破は今洞で板津は田原でそ れを家業としたことが考えられる。不破は今洞の紺屋に住んでいたし、板津は田原でいまも紺屋の屋号で続いている。
なお、この板津氏の系図の中に由井正雪が見られるのは注目される。由井正雪が縁者をたよってこの地を訪れたとの伝承があり、白山神社の傍らに正雪神社が建てられている。

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