五、戦国時代の楽田金川板津氏 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

1.織田弾正左衛門尉と板津正平
天野信景によって、元禄元年(一六八八)〜享保十八年(一七三三)迄の間に纏められた 「塩尻」所載、犬山楽田の大県神社神主を歴代つとめる重松家系図の中に板津中務少輔正平 が見られる。正平は始め楽田村の城主織田弾正左衛門尉の家臣となり、後に池田氏に仕え、 子孫も池田家に在りと伝う。さらに「塩尻」巻三十一に次のごとく記載されている。

重松氏(塩尻巻三十一より引用)
丹羽郡大縣宮二宮神主家を重松と稱す。元来利仁流の藤原なるが、故ありて橘朝臣を稱 すと云々。妙興寺蔵古證文の中に重松事あり、夫には尾張氏と見えはべる。重松左京亮が弟 板津中務丞は同郡楽田村の城主織田弾正左衛門尉に仕へし。其末今備前國池田家に奉仕すと云々。

さて重松氏は利仁流藤原氏と称しているが、確証は見あたらない。板津中務丞の記録で利 仁流としている点に着目すると、正平の母が利仁流の板津姓であったのかもしれない。これ については後の項で詳しく述べよう。
一方、織田弾正左衛門尉平久長は信長の四世先祖である。文安五年(一四四八)の妙興寺 天祥規式案に「織田兵庫殿久長」の名が見え、応仁二年(一四六八)二月二十八日付の内宮 引付記録所収の文書には「織田大和守久長」という名が見える。また大縣神社は永正元年 (一五〇四)に焼失して、同十二年(一五一五)に楽田城主織田弾正左衛門によって再建さ れたと社説に言い伝える。更に永正年中(一五〇四〜一五二〇)に、楽田城は織田弾正左衛門 尉久長によって築城されたと云われている。楽田城は永禄の初め(一五五八)までは久長の子 孫という織田寛貞が居城していたが、永禄初年(一五五八)頃同族の犬山城主織田信清に攻め 落とされたらしい。この時の城主が織田弾正左衛門尉であると「塩尻」に記載されている。

織田久長─┬─敏定─┬─寛定
└─寛村
└─良信─信貞─信秀─信長

この様に久長は百年以上も生存した事になり、いずれかの伝承が間違っている。文安五年 から応仁年間の久長の存在は確かであるが、「塩尻」に伝承された楽田城主織田弾正左衛門 尉の存在はない。更に文安五年(一四四八)の年を二十歳としても、永正年間には八十歳以 上と推定され、楽田城を築いた等の伝承にも疑問がある。
それでは「塩尻」所載、重松家系図にあるように、正平は池田氏家臣となり、その子孫が 池田氏に仕官したのであろうか。確かに正平の子孫と伝承される板津善右衛門藤原休トが池 田氏の家臣となった事は、金川板津氏の家伝書により明らかにされている。しかし「塩尻」 所載、重松家系図の原本と考えられる「尾張國神職諸家系図」所載、重松家系図には、正平 が池田氏の家臣であったとの記載はない。
正平の子孫金川板津氏の家伝書には、正平について

尾張国丹羽郡楽田ニ在城ス則國内拾五万石領末葉

とあり、正平が池田氏及び織田弾正左衛門尉の家臣であったとの記載はない。
更に、金川板津氏の家伝書には、正平が金川に移住した初代当主板津善右衛門の父とも、 祖父とも記載されていない。そこで正平が善右衛門の先祖と仮定して、正平と善右衛門、正 平と織田弾正左衛門尉、正平と池田氏の関係を推定してみよう。
金川板津氏の家伝書には歴代当主の卒年とその時の年齢が詳しく伝承されている。これら のデータをもとに、善右衛門を初代として、生年及び卒年(Y)と代数(X)との関係を最 小二乗法にて求めると次のようになる。
生年Y=1509.17+33.21X±5.17
卒年Y=1567.42+33.21X±9.05
正平を善右衛門の父とすると生年は一五〇九年、卒年は一五六七年、祖父とすると生年は 一四七六年、卒年は一五三四年と計算される。
正平を善右衛門の父とすると、弾正左衛門尉より約八十歳年下の正平が弾正左衛門尉の家 臣と成り矛盾する。正平の父が神主として活躍したのは文明年間であり、正平を善右衛門の 祖父とすると生年が文明年間となって、時代的には矛盾がない。
そうすると正平は弾正左衛門尉よりも約五十歳年下となり、更に先述した通り弾正左衛門 尉は織田信長の四世先祖であり、その信長の家臣である池田信輝に善右衛門は仕えているの で、年齢差と代数の関係から正平が弾正左衛門尉の家臣であったとの伝承も疑問が生じる。 池田信輝は天文五年(一五三六)に生まれている。この時正平は六〇歳程度の老人であった と考えられるから、正平が信輝の家臣となることは困難である。
以上のように正平が池田氏家臣となったとする「塩尻」の記載や、織田弾正左衛門尉の家 臣であったとする重松系図の伝承は疑わしい。
重松系図における板津氏は分流なのか、それとも婿入りなのかの謎については後で詳しく述べる。 結論を先に言えば、ほぼ当主を除き、母方の姓を唱えたと考えられる。

2.金川板津氏の先祖善右衛門
次に金川板津氏の家伝書の中の初代善右衛門藤原休卜(きゅうぼく)の内容を紹介しよう。

歴代当主行状金川板津氏家伝書
尾張國丹羽郡楽田ニ生ス永禄年中於摂州池田紀伊守源信輝ニ仕エテ釆地二百石ヲ給 天正八年閏三月二日摂州華熊表合戦之時相誥得首級其後勝入信輝濃州岐阜在城ノ砌犬山之取手 日置猪右衛門ニ命セラレ其刻猪右衛門幼稚ニ依り為後見善右衛門被指副犬山ニ罷有候同十八年 四月小田原陣相性誥其後奥州陣相努晩年ニ至令隠居因州於テ卒九十三歳男子伊織介喜太郎助之進興右衛門

生まれは楽田であるという。ただ池田氏の家臣となった下りには「永禄年中に於いて」ある いは「摂州に於いて」の二つの解釈が可能である。
後者の場合「永禄年中、摂州に於いて池田信輝に仕えて、二百石を給わる」事になる。楽田 の人間である板津善右衛門が摂州で仕官するという事は説明が付かないし、信輝が摂州にいた のは永禄年中ではない。これに対して前者の場合は「永禄年中に於いて、のち摂州を領した池 田信輝に仕えて、二百石を給わる」となり、二百石を給わったのは華熊等での活躍によるもの と推定されるから、矛盾無く理解し得る。
板津善右衛門は天正十二年(一五八四)の犬山城合戦では取手を日置猪右衛門(三蔵?)に 命ぜられ、天正十八年(一五九〇)の小田原合戦などにも従軍した。善右衛門の子、伊織介藤 原定秀は日置豊前守忠俊に仕えて第一家老職となる。奥州陣、関ヶ原合戦、大阪冬の陣、夏の 陣などに出陣して多くの首級を得たと云う。

3.板津善右衛門藤原休卜以降の板津の人々(金川町史より引用)
板津伊織
名は定秀、元亀元年尾張国に生まれた。父は善右衛門、永禄年中池田信輝に仕えていた。 天正十八年、日置真斎、忠勝相次いで没したので、善右衛門に忠俊の後見を命ぜられた。 伊織は忠俊に仕え、関ヶ原、大阪両陣では抜群の功名を立てた。四百八十石を賜り、第一家老職となった。 慶長八年金川入国のとき、七曲神社を再建した。
宇甘郷山論の中に代官として名が出ている。寛永二年九月二日因州鹿野で卒、年五十六。

板津義川(5代目)
名は定聴のち英代、延宝七年(一六七九)金川に生まれた。宝永五年父定勝の家督五百石を相続し、八郎左衛門といった。 日置忠昌に仕え和歌に長じた。六年金川十二景を詠じた。一方甲州流軍学の皆伝を受けた。同七年三十三歳の時、礼席の順位を替えられたため憤慨して金川を退去した。
京都三条御池で寺子屋を開いて、家臣岸助太夫父子と共に浪々の二十三年を過ごした。
その間詩歌を詠じ、三度丹後の天橋、知恩寺仁英和尚の下に参禅した。 享保十七年息英勝が成人したので新たに仕官をさし、改めて英勝の処に帰って来て、家老隠居として忠昌に仕えた。 元文二年(一七三七)七月二日、金川にて卒、五十九歳

板津武治
明治二年三月、英景次男として金川に生まれた。明治二十二年岡山県医学校を卒業し金川に開業した。 同三十二年頃日本生命保険会社の保険医を勤め、在職三十数年、同社の参事となり昭和五年退職した。 晩年岡山に居住した。昭和十四年卒、年七十一才。

板津吉顕
幼名八太郎通称武司、天保十年六月二十九日吉金長子として金川に生まれた。 神戸事件のとき忠尚の招きに応じて急拠西宮に行き家老嫡子として折衝に努めた、 明治二年家老職を仰せ付けられて三百石を相続したがやがて廃藩となり、明治初年の頃郡役所の出納係を勤めていた。
吉顕打揚煙火の製作の術に秀で、京阪地方の共進会にはしばしば賞品賞状を授与された。 岡山招魂祭の煙火大会には必ず出席して、煙火が揚がれば「板津が来た」と云われる程有名であった。 猟銃を好み雉笛の名人であったと云われる。加茂・紙加工方面の猟師が習いに来たと云う。 明治三十四年六十三才にて卒した。嫡子吉並は東京に移住した。

板津吉金
文政三年十二月二十日、金川に生まれた。父は吉風という。天保十一年二月二十日家督三百石を相続して家老職を仰せ付けられた。 幼名喜八郎、通称喜左衛門といい幕末多難な折、忠尚に仕えて活躍した。 明治二年家督を嫡子吉顕にゆづった。吉金は父吉風母澄江と共に富春につき和歌を学び第一の高弟であった。 藩籍奉還後は隠居して注連手と号して明治三年迎皎館をひらき習字等を教え、五年に至り廃止した。 同五年茶屋屋敷取払となり、銀杏の巨木が切倒される以前に克明に写し取ったのが残っている。 又金川の左義長の風習を図示して後世に伝える等、今にして思えば激動期をうかがう貴重な資料の一つであろう。明治二十九年四月二十九日卒す。

4.板津正平は加賀の板津氏の子孫か?
板津正平は前述の如く重松家の系図上に現れます。一見して婿養子に入ったように思われます。 しかし、重松家の系図を良く精査すると、重松家を相続するもの以外はほとんど他の姓を名乗っています。 しかも、兄弟達はすべて同一姓という代もあります。以下に重松家の系図を「塩尻」等から引用して下記に示します。

└─重松秀満(次郎太夫)───────秀村(中務丞)─────────┐
─┘
┌────────────────────────────────
├─秀永(左京進・神主) ─────┬─秀春(喜三郎)─────────
─┐
├─正平(板津中務少輔)
└─秀富(有藤喜左衛門)
├─女子(嫁倉知兵庫助)
└─勝正(落合右近将監)
─┘
┌────────────────────────────────
├─成正(板津吉左衛門)
┌─長治(佐橋卿右衛門)
├─正行(板津与三兵衛)
├─長光(佐橋理右衛門)
└─秀久(久七郎・神主)──────
├─信之(佐橋金右衛門)
├─吉信(佐橋九郎兵衛)
└─秀周(神主・母佐橋安右衛門尉女)

重松氏の神主の名前には全て秀を通字としていることが特徴です。佐橋の場合、神主を除き兄弟全てが佐橋姓であり、母は佐橋家の出です。 板津成正、板津正行の場合も神主を除き、全てが板津姓です。つまり母方の姓を名乗らせて分流したと考えられます。 神主家では母方の姓を名乗らせることが結構多いと聞きます。
板津正平の母も板津姓であった可能性がきわめて高いと考えられます。しからばその母は一体誰れなのだろう。 正平の父秀村は一四六九〜一四八六年頃に活躍した人です。 滝田板津氏の項で述べたように、板津政継が二人の息子と一人の娘を連れて美濃に移住してきたのは文明十一年(一四七九)のことです。 滝田板津氏の歴代の生年と卒年のデータより最小自乗法によって長男政吉の生年は一四五四年、卒年は一五二五年と計算されます。 三番目の娘が年齢的に見て秀村と結婚してもおかしくない年齢だろう。 文明十一年頃に美濃や尾張に移住してきたのは蛭川村の板津氏と滝田の板津氏しか存在しないので、正平の母が板津政継の娘であると推論することも可能です。 いずれにせよ、この推論は新たな史料の発見を待って検証されるだろう。

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