六、江戸時代の加賀藩板津氏

澤潟四郎

@加賀藩の板津氏
 板津彌藤次より約二百年後、加賀に板津氏の痕跡が見える。大聖寺藩主堀久太郎に仕えた連歌師 の板津了輔がいた。「加賀志徴(巻六)」等から加賀藩に仕官した板津氏の概要を述べよう。
 享保年中迄(一七一六〜三四)加賀の諸士の中に板津氏があったが断絶した。諸士系譜を見ると、 板津了甫は瑞龍公(二代前田利長)の時に召し出され弐百石を賜り、是に三人の子息があった。
 嫡子を左兵衛と云い、三百石を賜った。左兵衛の子の兵助は父の家督を継ぎ三百石を賜った。兵助 の孫喜市郎に至って、元禄年中(一六八八〜一七〇三)三の一早世して断絶した。諸士系譜には記 載されていないが、「富山藩士由緒」によると左兵衛の子に富山藩付きの嘉右衛門がいた。
 了甫の二男は盲目にて検校と云う。諸氏系譜では三男の如く記載されているが、弟の「八兵衛 由緒帳」から二男である事が知れる。陽廣公(四代利光)の時十口を賜り、延宝七年(一六七九) 没し、本多政長家臣ト水二男作左衛門と云う者を養子にしたが、享保十一年(一七二六)死去して 断絶した。
 なお作左衛門は宝永六年(一六二九)四月二六日、二九日に三代将軍家光と前将軍秀忠を江戸 屋敷に招待の記録、将軍様相國様御成之次第を残している。
 了甫の三男は八兵衛と云い、四百石を賜はり、是も曾孫亀之助に至って、享保十七年(一七三二) 三の一早世して断絶し、遂に板津氏残らず絶えた。この板津氏は確証ないが、板津介成景の苗裔 であろう。

加賀志徴(巻六)三四〇ページより引用
○享保年中迄吾が國公の諸士に板津氏ありしが、今は皆断絶せり。諸士系図等を考ふるに、板津 了甫とて瑞龍公の時召出され、貳百石賜はり、是に三子あり。嫡子左兵衛と云ひ、三百石賜はり、 曾孫喜市郎に至り、元禄年中三の一早世断絶す。二男は八兵衛と云ひ、四百石賜はり、是も曾孫 亀之助に至り、享保十七年三の一早世断絶す。三男は盲目にて、板津倹校と云ふ。陽廣公の時十口 を賜はり、延寶七年没し、本多政長家士戸水某二男作左衛門と云ふを養子にしたれど、享保五年 死去して跡断絶し、遂に板津氏残らず絶えたり。此板津氏は則ち板津介成長等の苗裔なるべし。 右板津氏の内に、板津介大夫と稱したる人も有れば、かた/゛\よしあるべし。さてその板津 検校は名高き人にて、異本御夜話に、陽廣公の御世と成りてよりは、何事によらず目録にで小松 へ伺ひ給ひしが、御使は必ず検校どもにて、小林・松坂・鹿島・板津の四人へ仰付けられ、微妙公 にも別してかわゆがらせ給ひたりき云々。享保録に、板津検校は歌學にも長じ連歌も能くす。 能順も若き比に指南を請けたり。或時能順發旬をなし、検校へ聞かせたるに、五文字を直して脇 をし、此にて面白し。少しの事にて趣意違ふよしいへるとぞ。其句に、「梅いづこ俤にほふ夕月夜、 能順。『みはしのもとにうごく春風、板津。萬治元年閏十二月十七日遊行上人より津田氏への書状 に、松坂・板津両検校も御噂申す。とあり。○新撰百人一首に板津不守一、『法の水すめる心のた のしみやまつさき立て夢にみゆら舞。○混見摘寫に、板津検校は初め儒者なりしかど、越後山の下 に止宿し、富田右衛門と夢中に対話す。翌朝宿主に、富田右衛門と云ふ者先年此山の下にて死去す と聞く。何れの地か若し聞き傳へたる事もなき哉と問ひけるに、則ち此家にての事なりといふ。 甚だ悲歎浅からず。是より佛法に帰依すとあり。
寛文二年板津八兵衛由緒帳
一、祖父  板津小三郎入道了心
  代々加州之者にて御座候。
一、父   板津了甫
  瑞龍院様當國初て御入国被成候時分被召出御知
  行貳百石被下、慶長十八年死去仕候。
一、知行四百石 板津八兵衛
  私儀微妙院様御代被召出、御知行貳百石被下、
  其後御加増貳百石拝領仕候。
一、兄    板津検校
一、せがれ  歳十 板津猪之助
一、甥    御小将組板津兵助
  以下畧之。
寛文七年御馬廻組 板津八兵衛由緒帳
一、祖 父  板津小三郎
  代々當國之住人にて御座候。後は越後景勝に罷在候。
一、父    板津了甫
  瑞龍院様當國初て御入國之時分被召出、御知行貳
  百石被下、慶長十八年死去仕儀。
一、板津八兵衛儀、微妙院様寛永二年被召出、御知行
  二百石被下、其後御加増二百石拝領仕、先知引合
  四百石被下置候。

A板津検校
 名は正的、通称巽一、又は不守一、盲人にして検校となった。前田利常、光高、綱紀の三代に 歴任、国学に通じ、和歌を能くし、連歌を脇田直賢に学んだ。前田利常に仕へて十人扶持を受け、 前田綱紀の幼時より、その左右に近侍し、切磋に勉めたと云う。寛文八年(一六六八)九月藩候 綱紀の為に、その武運長久を白山姫神社に祈請し、独吟法楽百韻を詠じ、これを献上した。著書 「正的筆記」一巻有り。

板津正的 加賀藩資料第四編延宝七年
是歳、板津検校没す
「加陽諸士系譜」
検校、陽廣公奉十口、延宝七死。古事記写本箱之内に、板津検校より奥村内匠、横山志摩両人に 賜る書翰あり。奥に巽一と署し正的の印あり。因て知る検校名は正的、称は巽一なるを。
「肺肝鈔」
一、今枝民部心齋或時板津検校に云けるは、若き殿には奉仕申事、何ぞ心得に成事も候はば承度と 云ければ、盲人の私儀、満事何共及び申事にも無之候。去ども申て見可申候。只御奇麗数奇を不被 遊様に可被仰上と云。民部夫は如何様の事に候と申候得ば正的の云、惣じて何程少なき家にも淤水 と云所無之ては叶ひ不申候。むさき所ながらなくて不叶。まして大き成御仕置には、猶更なくて不 叶事にて候と申しけるぞ。

以上
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