七、江戸時代の富山藩板津氏

板津昌且

@富山藩付きの板津氏
 「富山藩士由緒書」によると、板津了甫という連歌師の子孫が前田家家臣として代々富山藩に 仕えたという。
 初代了甫は大聖寺藩主掘久太郎に仕え、加賀白山下に居住していた。加賀二代藩主前田利長が 金沢城へ入った時に知行二百石で召し出され、利長が越中高岡へ隠居するとお供をして引っ越し、 慶長十九年(一六一四)高岡で病死した。了甫の子左兵衛直頼は父の家督を継ぎ、父と共に前田 利長に仕える連歌師であった。父の家督を継いだのち大阪夏の陣で戦功をたて、三代藩主利常より 百石加増されて、知行高は三百石となった。また四代藩主前田利光の連歌の席にも度々出席した。 直頼の子直清は寛永十一年(一六三四)に家督を継いだが、知行高は百石減の二百石であり、 寛永十六年に富山藩付きとなった。直清の子直員は寛文三年(一六六三)児小姓組、延宝元年 小姓組、正徳五年(一七一五)には馬廻組組頭となった。直員には子がなく、入江権兵衛五男 久兵衛を養子に向かえた。久兵衛直安は享保十年、養父直員が隠居すると共に家督を継ぎ、馬廻組 となった。直安の子猶邑は延享二年(一七四五)本知を受け、明和五年(一七六八)普請奉行、 寛政三年には無組町奉行になった。猶邑の次男は伊勢(三重県)の藤堂家家中の中村百兵衛家の 養子となった。長男猶儀は家督を継ぎ、享和二年(一八〇二)に役人組表目付となり、文政九年 (一八二七)には中奥奉行となった。その間嫡子が病死したため、天保六年(一八三五)に嫡孫 として子の嘉右衛門に家督を相続させた。猶儀の三男武平太は山口流剣術指南役として知られ、 天保八年(一八三七)、手廻組、五両二人扶持で雇われた。左兵衛の時、屋敷地は山王町となった。 家紋は「丸に三つ鱗」である。
 「丸に三つ鱗」の家紋を有するのは富山板津氏の他に美濃板津氏だけであるから、富山板津氏と 美濃板津氏とは同族と考えられる。これより、板津氏はいつの時代か二つに分かれ、一組は加賀に とどまり、もう一組が美濃に移住したと推定される。あるいは、美濃板津氏が織田軍団の家臣と なって、美濃から加賀へ再移住した事も考えられる。

「富山藩士由緒書」より引用
板津喜右衛門
一 先祖 板津了甫
  右、了甫儀、堀久太郎殿ニ罷在、其後、加州白山住
  居仕、歌道、相学、連歌者紹巴法眼、門弟ニテ御座
  候処  瑞龍院様、金沢御城江被為入候節、了甫并
  悴共被 召出、了甫、御知行二百石被下、久々御奉
  公申上、御隠居様江被召仕、
  慶長十九 年、於高岡、病死仕候
一 先祖 板津左兵衛 直頼
  瑞龍院様江父了甫、従存生之内、御小姓組ニ而被
  召仕、御擬作等之儀、相知不申候、父了甫病死後、
  為遺知、御知行二百石被下之候、其後、大阪御陣之
  節、御共仕、戦功茂御座候哉、
  従 微妙院様、御加増知百石拝領仕候、且亦、連歌
  相嗜、 陽廣院様、御連歌之御末席江茂罷出、御相
  手罷成、
  明暦二申年、病死仕候
一 先祖          板津嘉右衛門 直清
  寛永八未年、微妙院様江父左兵衛存生之内、御児小
  性ニ被 召出、是又、御擬作等之儀相知不申候、其
  後、寛永十一戌年、御知行二百石被下候、
  右者、父遺知被下候哉、且、御加増知百石茂、如何
  之趣ニ而不被下哉、此旨趣、何之儀茂、不申伝候
  微妙院様、被成御隠居候節、龍光院様江被成御附、
  富山江御供引越仕、御小姓組ニ而御奉公申上、
  万治二亥年、病死仕候
一 高祖父         板津嘉右衛門 直員
  万治三子年、五歳之年、従龍光院様、御懇意ヲ以、
  亡父嘉右衛門遺知之内、百石被下之候、寛文三卯年、
  御児小姓 ニ被仰付候、寛文九酉年、遺知無相違、
  二百石拝領被仰付、
  延宝元丑年、 正甫院様江御小姓組ニ而被為附、延
  宝九酉年、越後高田城 御請取 御発向之節、御供
  被仰付、其後、御馬廻組ニ被仰付候、且、
  安祥院様御代、正徳五未年六月廿五日、御馬廻組頭
  被 仰付候、且亦、男子所持不仕候ニ付、入江二代
  目、権兵衛五男、養子奉願候処、願之通被仰付、
  享保十巳年七月十八日、隠居被 仰付、則、名如醒
  与相改候
  其後、享保十二年未年四月六日、病死仕候
一 曾祖父 板津久兵衛 直安
  享保十巳年七月十八日、養父隠居、家督相続、御知
  行二百石無相違被下之、御馬廻組ニ被 仰付、
  寛保元酉年五月十 六日、病死仕候
  一、右久兵衛弟、万四郎儀、河村故代助江養子ニ
   差遺、則、当藤太夫曾祖父ニ而後座候
一 祖父 板津七郎左衛門 猶邑
  寛保元酉年十月十八日、十一歳之年、従太龍院様、
  亡父遺知之内三ケ一被下置、御馬廻組ニ而相勤、
  延享二丑年 三月十八日、霑慈院様御代、年十五歳
  罷成候ニ付、本知二百石被下之、宝暦四戌年七月十
  三日、御小姓組被 仰付、其後、退役被仰付候
  且、 龍徳院様御代、明和二酉年二月廿五日、御小
  姓組帰役被 仰付候、明和五子年九月十日、役人
  組御普請奉行被 仰付、御役料銀五枚被下置、明
  和六丑年十月廿日、会所奉行転役 被仰付、御役料
  銀五枚被下置、
  恭徳院様御代、右御役儀相勤罷在、其後、
  寛政三亥年九月廿一日、 寛隆院様御代、無組町奉
  行被 仰付、御役料等被下置相勤、
  寛政五丑年十一月十日、病死仕候
  一、右七郎左衛門二男、内藏之助儀、藤堂佐渡守
  様 御家中、中村故百兵衛衛江養子差遺、則、当百兵
  衛養父ニ而御座候
一 父           板津七郎左衛門 猶儀
  寛隆院様御代、寛政六寅年二月十五日、父為遺知、
  御知行二百石被下之、御馬廻組被仰付、同年十一
  月十三日、御組替、御小姓組被 仰付候
  霊昭院様御代、享和二戌年八月五日、御組替、役人
  組表御目付被 仰付、其後、同亥年、御役儀御免
  被 仰付候、文化二丑年十二月廿三日、地子諸役銀
  取立役被仰付候、同七午年正月廿七日、御小姓組
  被 仰付候、文政九戌年正月十一日、役人組、御中
  奥奉行被 仰付候、且又、嫡子久兵衛、病死仕候ニ
  付、嫡孫治太郎儀、承祖ニ奉願候、其以後
  御当代、天保六未年十二月十四日、及老年隠居被
  仰付、則、名如遊与相改申候
  一、右七郎左衛門二男、学次郎儀、江目彌右衛門
   江養子差、則、当彌五右衛門ニ而御座候
  一、右七郎左衛門三男、武平太儀、 霊昭院様御
   代、天保五午年二月十五日、武芸心懸宜候段達
   御聴、山口流剣術指南役被 仰付、且銀五枚被下
   置、当御代、同八酉年十月廿四日、芸術心懸、格
   別宜ニ付、御手廻組、御雇被 仰付、二人扶持、
   金五両、人給等被下置、是迄之通相勤候様、被
   仰出候、
一 私儀
  実祖父七郎左衛門、嫡孫承祖ニ罷成、且 御当代
  天保六未年十二月十四日、父隠居、家督相続、御知
  行二百石無相違被下之、御馬廻組被 仰付候
  天保七申年正月廿九日、前髪執、二ノ御丸御番入、
  被 仰付、其後、天保八酉年六月廿一日、御組替、
  御小姓組被 仰付候
右、先祖以来由緒書上申候 以上
    天保九戌年二月    板津嘉右衛門

A明治以降の子孫達
 明治新政府が誕生し、この一族は二百石の禄を離れた。禄を離れた時、禄に相当した額の紙幣が 渡されたという。その後の暮らしは相当大変だったようであるが、子供の教育には非常に熱心で あった。富山から東京へ子供を送ると云うことは経済的な負担が大きく、結局屋敷地を売り払い、 一族が東京に移住した。移住先は東京の本天沼であった。
 この一族は加賀藩、富山藩を通し、男子の名前に「直」をつける習わしがあり、他のグループと 区別しやすい。平成時代の本家当主は板津直篤氏である。
 なおこの一族の板津直孚氏は「父と子の絆」という伝記を著した。この中にこの一族のかっての 生活が詳しく紹介されている。
 富山にはこの他に足軽の子孫という板津氏が見られる。家紋は「丸に花菱」である。

以上
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