白江庄右衛門
澤潟四郎
戦国時代、滝田の隣村である加治田に板津氏の分家である白江氏が移住していました。同族の板
津・白江の二氏が滝田と加治田の至近距離に居住していたということは、単なる偶然とは考え
られません。確証はありませんが、応仁の乱後に板津・白江の二氏は統一行動をとって加賀より移住し
たのではないでしょうか。
美濃の加治田の勇士、白江権左衛門(喜左衛門又は庄右衛門ともあり)は南北山城軍記、堂
洞軍記、永禄美濃軍記などに、見えます。
白江庄右衛門が文献上、最初に登場するのは永禄八(一五六五)年八月二十八日の堂洞合戦であ
ります。信長方にあった加治田の城主・佐藤紀伊守の家臣として活躍しました。この年の九月一日に関
城主長井隼人道利が、加治田の不信をなじって攻めたのでこの戦が起こったのです。信
長は佐藤紀伊守からの援軍申し入れによって、齋藤新五に兵五百を与えて加勢させました。この戦
で佐藤紀伊守の嫡子佐藤右近右衛門は遂に討死しましたが、齋藤新五の加勢により関勢を追い払うことが出来ました。
この年、佐藤紀伊守は家督を養子の齋藤新五に譲り、永禄十年、伊深村に隠居しました。天正十
年、明智光秀の本能寺の変によって、齋藤新五が討死にしましたので、加治田の城は齋藤新五の叔
父齋藤玄蕃頭に預けられました。
兼山の城主森武蔵守長一が京都の乱世に乗じて、加治田の城を奪おうと兵を差し向けました。
これが兼山加治田取合軍です。このとき白江庄右衛門は加治田方の勇士として活躍し、兼山
方の豪の者・真屋新助の首を討ち取りました。そして、城主齋藤玄蕃頭より行光の脇指と感状とを賜わりました。
その後、城主齋藤玄蕃頭が死去して統率を失い、白江庄右衛門は兼山城の森氏に仕えました。天
正十二年(一五八四)、白江庄右衛門は長久手戦に参加し、家康の本陣に突入し討死しました。このと
き森武蔵守長可、池田信輝も討ち死にしています。遺骸は滝田村の隣村大山齢峯寺に持ち込み、
天猷和尚を導師として葬儀を行いました。
現在加治田はもとより岐阜県界隈には白江氏は存在しません。子孫、移住したと思
われます。豊臣秀吉に仕えた林悦は子孫かも知れません。