加賀における板津氏の生年と卒年については、すでに述べました。 美濃に移住した板津氏についても同様な考察を加えましたので、加賀と美濃の板津氏の生年と卒年からどのような結論が生まれるのかを紹介します。
まず最初は加賀における生年と卒年について、おさらいをしてみましょう。
加賀板津氏の生年と卒年の伝承は残されていません。そこで、石清水八幡宮等の史料から、 次の仮定のもとで、生年と卒年の概略値を決め、これをもとにもっと もらしい生年と卒年を最小二乗法で統計的に推定する事を試みましょう。
一、成年として初見された時を三十五歳とします。
二、老人時代の最後の記録から、次の記録の中間を卒年とするか、
或いは老人時代の最後の記録から十年後を卒年とします。
三、孫として初見された時を十五歳とします。
四、代間の間隔はほぼ一定で、一次方程式に従うとします。
以上の仮定で求めた生年と卒年を表に示します。これより親子関係が判明している板津成景を
初代とし彌藤次まで、代数をX、生年及び卒年の推定値をY(西暦)としますと、最小自乗法による統計処理により
生年推定値Y=1109.33 + 26.19X ± 3.22 (分散値)
卒年推定値Y=1173.19 + 26.19X ± 17.68(分散値)
となります。美濃に移住した板津氏の項で述べますが、生年や卒年の確認されているものと比較しますと、分散値(バラツキ)
がほぼ同じですから、この関係式はかなり信頼性があるものと思われます。これから親子関
係の確証のないものについても、それらの関係を推定することができます。
板津氏の歴代当主の生年と卒年の推定 | ||||
-- | 仮 定 値 | 生 年 計算値 |
卒 年 推定年齢 |
|
-- | 生 年 | 卒 年 | ||
成 景 | 1135 | 1211 | 1136 | 75 |
景 高 | 1166 | 1227 | 1162 | 66 |
家 景 | 1186 | 1221 | 1188 | 33 |
盛 景 | 1211 | 1289 | 1214 | 75 |
盛 能 | 1244 | - | 1240 | ? |
弥藤次 | 1264 | 1337 | 1266 | 71 |
頼 胤 | - | 1363 | ? | ? |
宗昌(盛家) | 1325 | 1387 | ? | ? |
宗昌の父、藤原頼胤は貞治元年(一三六二)には生きていましたが、貞治四年(一三六五)の資料にその名 はありません。おそらくこの間に死亡したのでしょう。中間をとって、一三六三年としますと、この年は前記関係式から 計算された長野彌藤次の子の死亡推定年(一三五七)に極めて近いのです。このことから、頼胤を長野彌藤次の子と考 える事が可能です。「古文書より見た中世寺井町地方史(重友・長野村領主、板津氏五代とその残影)」を書かれた平野外喜平氏も頼胤 を長野彌藤次の子と考えておられたようです。
彌藤次の名が共通する事から、板津彌藤次は長野彌藤次の子孫と考えられます。板津彌藤次入道子息等の名が歴史 上初めて登場したのは永徳三年(一三八三)です。子息等と書かれていますので、この時、彌藤次は故人となっ ていたか、或いは相当の老年になっていたと推定されます。
板津彌藤次の死亡年が何時であるかを示す確証はありませんが、永徳三年と考えれば、前記関係式から導き出された
長野彌藤次の孫の死亡推定年(一三八三)と一致します。従って、板津彌藤次を長野彌藤次の孫と考える事に年代
的矛盾はありません。
板津彌藤次と藤原宗昌(盛家)との関係を示す史料も残されていませんが、両者の関係を推定してみましょう。
藤原宗昌の卒年は、永和三年(一三七七)の最後の記録から十年後としますと、一三八七年となります。これは先の
関係式から求めた長野彌藤次の孫の卒年(一三八三)に非常に近いのです。宝徳三年の長福寺の寺領目録から宗昌が板
津姓であった事が確かめられていますから、宗昌を板津彌藤次と考える事も可能です。このような推定が可能で
ある根拠は当時板津氏の家族数は一所帯程度と考えられるからです。
結局、長野彌藤次、藤原頼胤、藤原宗昌、板津彌藤次の関係は矛盾無く説明できます。
このように親子関係が不明な人物についても、最小二乗法による生年・卒年の推定式から、両者の関係を推定 することが可能です。
また死亡年から推定生年を引く事によって、成景らの死亡時の年齢が推定できます。それ
によると成景は七十五歳、景高は六十五歳、家景は三十三歳、盛景は七十五歳、彌藤次は七十一歳と計算されます。
更にこの一族の平均寿命は六十四歳と推定されます。
なお成景から頼胤、宗昌までの範囲で生年と卒年を計
算しますと次の関係式が得られます。
生年推定値Y=1107.20 + 26.92X±3.59 (分散値)
卒年推定値Y=1171.51 + 26.92X±14.49 (分散値)
次の表は板津成景から板津宗昌までの生年と卒年の関係を示したものです。承久の乱で死亡した家景を除き、 結構長寿命です。昔の人は短命であったと言われていますが、どうも怪しい説と思います。
板津氏歴代当主の生年と卒年の推定 | ||||
-- | 仮 定 値 | 生 年 計算値 | 卒 年 推定年齢 | |
-- | 生 年 | 卒 年 | ||
成 景 | 1135 | 1211 | 1136 | 75 |
景 高 | 1166 | 1227 | 1162 | 66 |
家 景 | 1186 | 1221 | 1188 | 33 |
盛 景 | 1211 | 1289 | 1214 | 75 |
盛 能 | 1244 | - | 1240 | ? |
弥藤次 | 1264 | 1337 | 1266 | 71 |
頼 胤 | - | 1363 | 1295 | 68 |
宗昌(盛家) | 1325 | 1387 | 1322 | 65 |
加賀板津氏と滝田板津氏当主の生年と卒年の推定
滝田板津氏の政継から17代にわたる生年と卒年のデータを世代間隔一定として最小自乗法を用いて計算したデータを下記に示します。
生年 Y=1427.28+27.02X±3.44
卒年 Y=1497.79+27.02X±11.37
加賀の場合は生年と卒年を仮定して計算しているため、分散値は大きくなると考えられる。 しかし、生年の分散値は加賀板津氏の場合±3.59に対して、滝田板津氏の場合は±3.44と数値が接近しています。 また卒年の分散値は加賀板津氏の場合±14.49に対して滝田板津氏の場合はプラス±11.37で数値が接近しています。 従って、加賀の計算は十分信頼できるものと考えられる。
下記の図表は加賀板津氏の当主と滝田板津氏の当主の生年と卒年の推定値を比較したものです。 ここで黒字は該当する人物の計算値、赤字は外挿した推定値です。
加賀板津氏の成景から彌藤次または宗昌までの値をベースに子孫方向に外挿した推定値と 滝田板津氏の政継から政家までの計算値とはよく一致しています。 またその逆、滝田板津氏の17代の計算値から先祖方向に外挿した推定値と 加賀板津氏の成景から彌藤次または宗昌までの計算値とを比較してみると、極めて良く一致しています。 あたかも一つの家系であるがごとく見えます。
加賀板津氏と美濃や尾張に移住した板津氏の間には約百年間の空白部分がありますが、このように生年と卒年の推定値を比較してみますと 不明の期間は三代という事が解ります。
また加賀の板津氏や長野氏では「昌(まさ)」という文字が名前に使われていた形跡があります。美濃では「政(まさ)」尾張では「正(まさ)」が 使われていました。これも何かの共通点かも知れません。
加賀板津氏当主からの推定 | 滝田板津氏からの推定 | |||
成景〜宗昌間 | 成景〜彌藤次間 | |||
当 主 名 | 生 年〜卒 年 | 生 年〜卒 年 | 当 主 名 | 生 年〜卒 年 |
1.成 景 | 1134〜1198 | 1136〜1199 | 誤差大 | 1130〜1201 |
2.景 高 | 1161〜1225 | 1162〜1226 | ↑ | 1157〜1228 |
3.家 景 | 1188〜1252 | 1188〜1252 | ↑ | 1184〜1255 |
4.盛 景 | 1215〜1279 | 1214〜1278 | ↑ | 1211〜1282 |
5.盛 能 | 1242〜1306 | 1240〜1304 | ↑ | 1238〜1309 |
6.彌藤次 | 1269〜1333 | 1266〜1330 | ↑ | 1265〜1336 |
7.頼 胤 | 1296〜1360 | 1292〜1357 | 注1 | 1292〜1363 |
8.宗 昌 | 1323〜1387 | 1319〜1383 | ↑ | 1319〜1390 |
↓ | 1349〜1414 | 1345〜1409 | ↑ | 1346〜1417 |
↓ | 1376〜1441 | 1371〜1435 | ↑ | 1373〜1444 |
↓ | 1403〜1468 | 1397〜1461 | ↑ | 1400〜1471 |
↓ | 1430〜1495 | 1424〜1487 | 0.政 継 | 1427〜1498 |
↓ | 1457〜1521 | 1450〜1514 | 1.政 吉 | 1454〜1525 |
↓ | 1484〜1548 | 1476〜1540 | 2.政 光 | 1481〜1552 |
誤差大 | 1511〜1575 | 1502〜1566 | 3.政 家 | 1508〜1579 |