田原左衛門尉頼吉の実像と虚像 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

我が二代目先祖板津兵右衛門尉源頼光が天文元年(一五三二)の頃、濃州猿啄城の城主土岐頼吉の軍師として、 福地太郎右衛門之尉等と共に斎藤八郎左衛門俊直(利直)のこもる小野山合戦において比類無き働きをした事は「戦 国時代の滝田板津氏」の項で述べたとおりであります。
土岐頼吉すなわち田原左衛門尉頼吉は「竜泰寺史」によって、その実像がゆがめられてしまったきらいがあります。
そこで田原左衛門に関する諸記録、文献を紹介し、考察を加えて実像に迫ってみることにします。

1.〔美濃明細記〕  勝山古城の項
「もと田原左衛門居之、道三の旗下也……」

2.〔加茂郡誌〕 猿啄城跡の項
「坂祝村勝山の西方にあり、享禄三年田原左衛門此に城を築き居住……」
「田原左衛門は田原村の住人なり、戦国時代の末に猿啄城(現坂祝町勝山)を築きて居住しけるが……」

3.〔新撰美濃志〕 勝山村の項
「……猿啄城跡は村の西にあり。田原左衛門が初めて築き・…:此城もとは田原左衛門築之居住・…:田原此城に十七 年在城しけるとかや。……」

4.東田原村の項
「東田原村は西田原の東にあり、『御料六百四十七石一斗四升』『田原尾張守頼郷』は土岐系図に『左京大夫頼益の弟 にて賀茂郡田原住』と見えたり。ここの人か又西田原の住人か今知りがたし。又安土創業録に『田原左衛門猿啄(今の 勝山)の城を築きて居住したり』しよしいへるもここの人なるべし。」

等の記載がある。注目されることは、田原左衛門が田原村の出身であり、美濃国第六代の守護土岐頼益の系譜にあるこ ととする新撰美濃志の記載があること、また、美濃明細記によれば田原左衛門は斎藤道三の旗下にあると述べていることです。
これを要約すれば、「享禄三年(一五三〇)に初めて城を築き、田原左衛門が此城に十七年在城した」という事になります。
しかし田原左衛門尉頼吉は「竜泰寺史」によって、その実像がゆがめられてしまったきらいがあります。以下これについて 詳細にその根拠を示そう。

猿啄城史に「竜泰寺史」の記録が残されていますが、「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中の一部を下記に示そう。

「・・・・コレ時ニ応永十五年正月九日ナリ。善政、正澄相共二補陀寺ニ登ッテ、無極和尚ニ伸年ノ儀及ビ落成ノ賀ヲ請ヒ大斎会 ヲ設ケル等禅法ヲ尊宗スルコト最モ到レリ、コレョリ毎歳定例ヲ設ケテ祝斎ヲナス。然ルニ同国ノ田志見(田治見)ノ城主修 理大夫頼吉猿喰城ヲ攻ム、共ニ防戦スルト云エドモ城中ノ兵疲労シテ、コトゴトク討死シ、城主モ亦没落ス。時ニ善政公深ク 矢疵ヲ負イ、正澄卜共ニ兵ヲ収メテ土田邑ニ退ク時、頼吉ノ大勢後ヲ追ッテ来ルヲ以テ、正澄反戦スト雖モ残兵疲労シテ過半 討死ス、善政コノ時自殺シ、・・・・」

さらに「竜泰寺史」の中の「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」という史料の末尾に「堂洞軍記に詳也」という記述がある事から、 この史料は堂洞軍記が書かれた西暦一七〇〇年頃以後に書かれたもので、その中に次の如く示されています。

猿喰城主西村豊前守善政嘉吉元酉年正月九日月江之時詣テ大泉寺隋例設大斉會時田原左衛 門尉頼吉隔吉末木曽川及一戦善政終為頼吉被害民家山林焼失干時江辞猿喰帰龍泰寺此夜龍泰寺茂亦為兵火焼失宝徳三年龍泰寺又 再為兵賊諸堂不残焼失是時月江嘱華叟有板東之行有古證頼吉居城末畿戦多治見修理死又永禄八丑年織田信長公攻勝多治見修理初 軍よ」と悦ビ改猿喰為勝山右猿喰者今勝山是成其後城主川尻肥前守相続帰衣大泉寺干今両家古老者古屋敷と称し大泉寺左右。現 存依知大泉寺者為猿喰之城中由緒大泉寺縁起伺堂洞軍記ニ詳也

「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中で修理太夫頼吉が西村豊前守善政を撃ったとありますが、 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」では田原左衛門尉頼吉が嘉吉元年(一四四一)に西村豊前守善政を撃ったとなっています。 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」が書かれた当時、すなわち西暦一七〇〇頃以後には田原左衛門尉頼吉は公知となっていただろうから、 「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の作者は「山田右馬之尉正澄由緒の写」の中の修理太夫頼吉田原左衛門尉頼吉に重ね合わせて、 あたかも嘉吉元年(一四四一)に田原左衛門尉頼吉が西村豊前守善政を撃ったと錯覚してしまったのでしょう。

問題は嘉吉元年(一四四一)から二六〇年以上も経過した堂洞軍記の書かれた西暦一七〇〇年頃以降に書かれた史料の信憑性だが、五〇年も先の事を 正確に覚えていることすらおぼつかないのに、作者が生まれていないはるか二六〇年以上も前の時代の事を何らの確証もなく、真実 を以て書くことは出来ない。
従って田原左衛門に関する「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の記事の歴史的な価値は全くないと言ってよいだろう。

更に付け加えるならば、一般的に左衛門を代々襲名することは有っても、例外があるかもしれませんが頼吉なる名を代々襲名す ることありません。従って、嘉吉元年(一四四一)の田原左衛門尉頼吉が代々田原左衛門尉頼吉を名乗って享禄三年(一五三〇)まで 連綿として続いてきたとは考えられません。このことからも田原左衛門に関する「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の記事の歴史的な 価値はないものと考えざるをえません。

以上紹介したように、享禄三年(一五三〇)の田原左衛門尉頼吉は実像であっても、嘉吉元年(一四四一)の田原左衛門尉頼吉は 虚像であります。

次に猿啄城を追われた田原左衛門のその後はどうなったのであろう。
これについては「家系大辞典」の田原の項に詳しく述べられています。

タハラ條第六項に載せたる猿啄城主田原左衛門尉の後にして、田原秀郷の裔と伝ふ。その系図に「濃州猿喰城主、(本国紀州) 藤代、藤原姓俵左馬允、信長の為に没落せしめられ、一門家子・悉く討死す。此時、信長・猿喰を勝山と改む云々。紋・上り藤の 丸の内三ツ頭左巴也」と載せ、又補陀落山記に「猿喰城主田原左衛門尉云々」と。此の流・何によりて棚橋と称せしや詳かならず、 されど或は前項氏と関係あらんか。其の発祥地紀伊藤代は、足助城主鈴木氏の起りし地なればなり。
左衛門に三子あり、棚橋弥次左衛門朝清、同新五左衛門朝光、與惣左衛門朝家、これ也。朝清の裔は遠山藩に仕へ、朝家の裔は 徳山毛利藩に仕へ、後京都に出でゝ、町奉行與力たり。棚橋琢之助氏は其の裔也。

此についての論評を差し控えますが、我が家の伝承では田原左衛門尉頼吉は土岐姓であるから、藤原姓の田原左衛門尉頼吉とは 明らかに伝承に差異があります。

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