俵藤太と利仁将軍 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

板津氏は本来は藤原利仁の子孫であるはずですが、何故か俵藤太の子孫という伝承があります。この理由を証明する史料はありませんが、藤原利仁の権威と伝説が藤原秀郷の権威と伝説に移行したという説があります。 これに就いての解説は、「利仁将軍から秀郷将軍への権威の移動過程」を参照してください。まずはともあれ伝承を紹介しましょう。

去る延喜の頃、秀郷は近江の国に住んでいました。ある時、唯一人勢田の橋を渡って行きますと、大蛇が橋の上に横たって伏せて居ました。秀郷はかの大蛇の背の上を越えて、遥かに行き過ぎますと、怪しげな女が一人忽然と秀郷の前に来て謂いました。私はこの橋の下に住むこと既に二千年になります。貴賎往来の人を沢山見て来ましたが、今あなた様ほど剛なる人は見た事がありません。私には長年土地を争っている敵があります。彼の動きのために悩んでおります。可能ならば、あなたが私の敵を討って下さいと心をこめて頼みました。秀郷は、子細有りと承諾し、直ちにこの女を前に立て、また勢田の方に引き帰って来ました。暫くしますと、比良の高峰の方から松明が二列にともして、中に嶋の様になった物が竜宮城を指して近づ いて来ました。その物体をよくよく見ますと二列に見える松明は皆巳の左右の足と見えました。これは百足・やすでの化けたものと心得て、眉間の真ん中を弓で射ました。二本の矢を射損じて、たのむはあと矢一筋となりました。思うところがあり、矢先に唾を吐きかけて射ますと、毒の為か眉間の真ん中に立ち、喉の下まで貫き刺さりました。倒れる音が大地を響きましたので、立ち寄って見ますと、果たして百足でした。龍神はこれを喜んで、秀郷を様々にもてなし、太刀一振、絹一巻、鎧一領、頚結んだ俵一つ、赤銅の撞鐘一つを与えて言いました。あなたの子孫には将軍となる人が必ず多く出るでしょう。
秀郷は都に帰って後、鐘は梵砌の物として、同国の三井寺にこれを献上しました。また巻き絹を切って使うも、尽きることがなく、俵の中の納物を取っても取っても尽きる事がありませんでしたので、その間財宝は倉に満ちて衣装は身に余るようになりました。故に、其の名を俵藤太とも謂うそうです。
なお俵藤太の伝承は太平記、俵藤太物語に詳しく書かれています。

瀬田橋の現状
伝説・俵藤太秀郷ムカデ退治の場所に一度はいってみたいと思っていました。その伝説が家伝書に記されているからです。
大阪に出張する機会が度々ありましたので、そのチャンスを利用して三回ほど訪れたことがあります。京都から東海道線の上り電車に乗り、石山駅で下車します。
石山駅よりタクシーにてワンメーターの所に瀬田橋はあります。橋を一寸渡ると川の流れに沿って長い中州があります。
橋の右手、中州の小高い丘の上に俵藤太秀郷の像が鎮座しています。草ぼうぼうの中に立っていた時もあり、手入れは余り行き届いていないようです。像は三上山の方をじっと見据えています。由緒らしきものは見あたりません。

俵藤太像

中州の橋の左手を見ますと、秀郷がムカデを射ようとしている大きな絵看板があります。ここにも看板の由緒はありません。看板の前に自動車が駐車していて、絵を正面から眺めるチャンスをじゃましています。三度目に訪れたとき幸運にも、遮るものは何一つありませんでした。思わずデジカメのシャッターを何度も押しました。

俵藤太のムカデ退治

中州の部分に別れを告げ、橋を向こう岸まで渡ってゆきますと、右側の対岸に百足退治の碑と弓を持った武者のモザイク絵とが見えてきます。橋の上からそれらの十倍ズーム写真を撮りましたが、行き交う自動車で橋が揺れて、画像が少々ブレてしまいました。
碑には次のように書かれています。

俵藤太百足退治伝承の地

この地は平安時代の武将で有名な 俵藤太(たわらとうた)(藤原秀郷(ひでさと))が、百足(むかで)を退治した というところです。
藤太は承平年間(九三一〜三八)、 瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で 困っていた老翁(龍神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で 見事に退治した伝承はよく知られて います。
平成九年四月二十六日建立

俵藤太百足退治伝承碑

先に述べた弓を持った武者のモザイク絵は秀郷神社の横の川岸にあります。作成当時はハッキリとコントラスト良く作られていたと思いますが、私が訪れた平成十三年頃は少し色あせていました。とは云え、この部分だけコントラストを高めて見るとすばらしい原色が浮かび上がってきます。
百足退治の碑やモザイク絵の正面全体像は小舟でも出さない限り、川岸からは眺められません。やむなく橋の上からの望遠レンズによる撮影となった次第です。

俵藤太のモザイク絵

橋を渡りきった所に勢多橋龍宮秀郷神社があり、下記のような簡単な由緒を書いた立て看板があります。

伝説、俵藤太ムカデ退治の勢多橋龍宮秀郷社
祭神  瀬田川龍神・俵藤太秀郷

神代の古から此の大川に鎮り座す龍神で瀬田川と唐橋の守り神です。
俵藤太が龍神の頼みにより大ムカデを平らげた伝説は廣く知られています。
江戸時代には殿上人の信仰が厚く霊験あらたかな龍神であります。

むかで射し昔語りを旅人の
いいつゝ渡る勢田の長橋
大江匡房

詳しい由緒書は社務所にあります。

勢多橋龍宮社務所

多橋龍宮秀郷社

興味があって社務所に行き、俵藤太の百足退治の由緒書を手に入れました。ここで二つの驚くべき伝承を手にしたのです。
一つは、百足が平将門とおびただしい数の将門軍団であるということです。平将門がその軍団を引き連れて、都を攻め上ろうとしていましたが、俵藤太秀郷がそれを阻止した故事に百足退治の伝承が重なっています。
第二には秀郷が百足の左目を射たというのです。家伝書や太平記では百足の眉間を射たと有り、伝承が異なっています。将門は全身鉄で覆われ、目だけが裸身だったという伝承もあり、目を射るしか仕方が無かったというわけです。

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