利仁将軍から俵藤太へ権威の移動過程 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎

  「物語の中世」の中で保立道久氏は鎮守府将軍の地位と百足退治に見る説話の二点において利仁から秀郷へと権威が移った過程を説明しています。
  藤原利仁の時代、中央政権は関東以北の蝦夷と、北海の新羅の問題に頭を悩まされていました。この二つの問題の対応の任務に最初についたのが藤原利仁でした。
  利仁は、『尊卑分脈』によると、秀郷と同じく魚名流藤原氏の出で、父は民部卿時長です。都の「一の人」(関白藤原基経)のもとに出仕していた利仁が、越前国敦賀の豪族有仁の婿で、在地に大きな勢力をもっていたことは、『今昔物語集』(巻二十六の十七)の芋粥の説話で有名ですが、『尊卑分脈』に、かれの祖父高房が越前守の官歴をもつことと、母が越前国の住人秦豊国の娘であったことが記されており、国衙の権力を背景にした現地勢力との二代にわたる婚姻関係が越前留住の前提であったことが想定されます。
  利仁の官歴について、『尊卑分脈』には、武蔵守、従四位下、左(近衛)将濫、延喜十一年(九一一)任上野介、同十六年上総介に遷任(介は国司の二等官とありますが、上野・常陸・上総は親王任国であるため、介が実質的な長官)、同十五年に鎮守府将軍となったとありますが、いずれも確実な史料からは確認できません。
  利仁が平安末期にはすでに英雄的な武士として著名であったことは『二中歴』(第十三)の一能歴(すぐれた技量・才能)の武者の項に「将軍利仁」として登場することからも明らかです。利仁は北陸の斎藤・富樫・井口・林などの武士団の共通の祖として『源平盛衰記』巻三十に、「されば三箇国(越前・加賀・越中)の者共、内戚・外戚に付て、親類一門ならざる者なし」と記されており、『吾妻鏡』(文治五年〔二八九〕九月二十八日条)にも坂上田村麻呂とともに、天皇の命令を受けて賊主悪路王を討つための征夷戦にのぞんだ武人として見え、鎌倉武士の間でも、秀郷と同様にかれら「武士」の始祖として英雄視されていたことが知られるのです。
  なお、室町時代になると利仁は田村麻呂と混同されるようになり、舞の本の『未来記』には「坂上の利仁」と表記されています。
  利仁による征夷戦争の具体的なストーリーは室町時代末期に成立した『鞍馬蓋寺縁起』にみえますが、このような説話化された利仁の群党討伐譚は、早ければ十世紀中葉には民衆に流布していたといいます。
  蟻のごとく「党」を結んだ「群盗」はすなわち「異類」であり、「夷」そのものであったわけですが、かれらのたて籠もった高座山については、栃木県黒磯市高林の小丸山、塩谷郡の高原山、河内郡上河内村の高倉山にあてる説があります。そして、上河内村には利仁を祭神とする関白神社があり、毎年八月七日の祭礼で奉納される一人立三匹の関自流獅子舞は高座山に寵もった千人の鬼を退治する姿といい、栃木県の民俗無形文化財に指定されている(毎日新聞宇都宮支局編『下野の武将たち』)。
  このように藤原利仁は藤原秀郷に先んじて、史実であるかどうかは別として、鎮守府将軍として下野あたりで活躍した武人として伝承されています。
  当時、藤原利仁は強大な富を背景として北陸の軍人の長としての地位を確保し、新羅に通じる北陸の制海権も掌握していたものと考えます。これが元となり新羅征伐の任を担うことになったのでしょう。
  藤原利仁については、『今昔物語集』(巻十四)に芋粥の話のほかに今一つ、征新羅将軍の説話がみえることには特に注目しておく必要があります。その概要は「文徳天皇の時代、朝命に従わない新羅を征伐することになり、その将軍に利仁が起用されます。これを知った新羅は、唐の法全阿闍梨を招いて調伏を行います。そのために利仁は出征の途上、山城と摂津の境の山崎で頓死する」というものです。
  この説話成立の背景としては、利仁の本拠が朝鮮半島と関係の深い日本海交通の要地・越前敦賀にあったこととともに、蝦夷と新羅を「王化にまつろわざるもの」=「異額」として同一視した当時の人々の意識の存在が指摘されています。群党の多くを構成したのは俘囚(王化にそまった蝦夷)でしたから、その蜂起を鎮圧するのも「征夷」にほかなりません。蜂起した俘囚・群党は「まつろわぬ」新羅や蝦夷と同じ存在なのでした。中世成立期に東国に配置された軍事貴族の使命はここに明白でしょう。
  藤原利仁の存在形態について検討を加えた高橋昌明氏は、鎮守府将軍の地位に就くことは、東国における群党蜂起鎮圧を表象することに等しく、その時期に東国で最も軍事的に有力な軍事貴族が登用されたものとみてよいということを指摘している(「将門の乱の評価をめぐって」)。そう考えますと、平将門の乱後の東国で、最も有力な軍事貴族の一つであり、陸奥に接する下野国を本拠とする秀郷流藤原氏こそ、鎮守府将軍を家職とするにふさわしい存在なのでした。ちなみに、『尊卑分脈』は、秀郷のひ孫文行に「母 利仁女」の傍注を付しています。文行は十一世紀初めの頃に活動した人物で、利仁の孫とするには時代的に整合しませんが、この記事を、秀郷流が利仁の地位の継承者とみられたことの反映としてとらえることは可能でしょう。
  このことについては、利仁の群盗討伐譚の舞台が、秀郷の本拠となる下野国であることや、利仁の子の有象が下野守・鎮守府将軍に任じ「中将軍」と号したと『尊卑分脈』に見えることも傍証となります。
  後世、武門の長として源平両氏があがめられていますが、武門の長としての地位は藤原氏に先んじられていたのです。頼朝が鎮守府将軍とは異なる権威を望んで、征夷大将軍となったのも、別の形で頼朝の権威を作りたかった現れでしょう。
  秀郷の「ムカデ退治」や龍神からもらった「取れども取れどもつきない米俵」の原型は藤原利仁の説話に存在すると考えられます。
  保立道久氏は、『物語の中世』の中で、藤原利仁の富裕の背景に日本海交易があったことを指摘し、その前提として日本海域における海民の活発な活動の事実を『今昔物語集』の説話群から抜き出しています。その説話の一つに加賀国の七人の漁民が蛇体をした「猫島」の神に招き寄せられてこの島に漂着し、百足の姿をした敵の神と戦ってこれを打ち負かし、七人は猫島に移住することになったという話がある(巻二十六の九)。これは、中世初期に成立した『太平記』と中世後期成立の御伽草子『俵藤太物語』で、秀郷が龍神の依頼で近江の三上山に巣くう大百足を退治した話と共通するものがあります。
  また、保立氏は、利仁の事跡が『鞍馬蓋寺縁起』に特筆大書されている点から見て、草創期の鞍馬寺にとって利仁が毘沙門天を体現する重要な旦那であったことを推測している(同)。『宇治拾遺物語』(巻十五の七)には、その毘沙門天が越前国に住む男に「米二斗わたすべし」という「下文」を授け、男はそれによって鬼から「使っても減らない宝の米」を与えられたという話が見えます。これは、秀郷が龍神から大百足を退治した返礼として「取れども尽きぬ米俵」を与えられたという『太平記』や『俵藤太物語』の話とオーバーラップするのです。
  以上述べた通り、軍事貴族としての存在形態の上からも、説話における役回りからも藤原利仁こそ秀郷の原型といえるのです。
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