農民として生きた滝田板津氏 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!

澤潟四郎
滝田板津氏は加賀より移住後は武士としての歴史が若干あったが、江戸時代以降は農民としての歴史しか残されていない。
この板津氏は、庄屋職として五人組などに代表される掟を農民に周知徹底させる事や、各村の庄屋の代表である納庄屋となって、江戸浅草まで毎年年貢米を無事に納める事が主な任務であった。 それでは、滝田板津氏の農民としての歴史を紹介しよう。

●項目リスト
◎農民となっても苗字を忘れなかった板津氏
◎庄屋として活躍した板津氏
◎納庄屋として納米に関わる
◎滝田村
◎羽生野の開墾
◎学校制度
◎弥勒古墳碑
◎法源寺
活躍した人々
◎板津宇平治
◎その他の活躍した人々

◎農民となっても苗字を忘れなかった板津氏
秀吉が実施した武士と百姓の分離政策の時、武士とならずにこの村に居着き、帰農して頭百姓になったと思われる。頭百姓の特権として庄屋などの村役となり、神社の儀式においては主たる役目をし、諸会合の席次も高かった。
江戸時代の農民の歴史を明らかにする上で最大の障害は、公式文書に苗字が記録されていないことである。従って家伝書や過去帳と照らし合わせながら、富加町史、人名辞典等により江戸時代以降の歴史を述べよう。
苗字は江戸時代に百姓には無かったと考えている者がいるが、公式文書では苗字を書くことが許されなかっただけで、多くの家は私的に使うことは認められていた。明治三年に苗字が許された時にすべての百姓が新しく苗字を定めたわけでは無い。
後で詳しく述べるが、古くは正徳元歳辛卯十一月五日に建てられた弥勒古墳碑に板津喜兵衛勝吉の名が見える。
また安政四年(一八五七)三十三観音石仏を造立した時の寄進帳には近郷四十名の寄進者が姓を記載し、その中に板津姓が多数見られる。
なおこの地方の板津姓には、代々庄屋を努めた大板津系一族と、庄屋家の奉公人として働き、明治になって板津姓を称した系とがある。

◎庄屋として活躍した板津氏
江戸時代に農民を統制する手段として五人組制度が採用された。これは江戸時代に始まったことではなく、古代律令時代の時にも法令化されていた。
板津氏は代々滝田村の庄屋を努めてきた。庄屋の重要な仕事の一つとして、長文を毎年四回、百姓に読み聞かせて徹底する事である。この守るべき箇条書きを仕置帳・掟書・五人組仕置帳等という。宝暦十一年(一七六一)の五人組御仕置帳には、百姓の守るべき条項が七〇条にわたり事細かに指示してある。これを見ると、当時の農民生活の実態がありありと想像されて興味が深い。この長い条文を読んで聞かせる庄屋宇平治(政信)もご苦労であったが、畏まって聞いている百姓たちも定めし眠くなったのであろうと思われる。

滝田村五人組御仕置帳(富加町史 上巻 資料編 二五五頁)
宝暦十一年
五人組御仕置帳
巳八月    濃州加茂郡
滝 田 村
庄 屋 宇 平 治
条々

一、前々から仰せ出された御条目はいよいよ堅く相守り急度相慎み申すべきこと。五人組の儀は町場は家並、村は最寄り次第に五軒宛、大小の百姓、地を借りている者、水呑みまで組をつくり、子供下人までよく吟味する。もし吟味せず悪いことができたならば、組中の落度に申し付ける。又申合わせを背く者があったならば訴え出る。
付、何事によらず村中相談の上、依怙贔屓のないよう正直に申合わせる。
一、親に孝行をつくして、人を敬うことは申すまでもなく、その内すぐれて孝行な者や飢えの人を救ったり、又何事も正直で忠実な者があった時はお上へ届け出る。
一、毎年宗門帳は三月までに差し出します。若し切支丹の者があれば早速申し出る。
付、御高札が若し破損したならば早速申し出て、雨覆や矢来がいたんだ時は早々に修繕する。
一、切支丹ころびの者(改宗者)やその一族は別帳に書いて差し出します。他村からそれらの者が縁組みで来るとか、他村へ出る者があれば早々注進する。
一、印鑑は宗門帳五人組帳に押したものを守る。若し印鑑を替えた時は御役所へ改印の届けをします。又名を替えた時は宗門帳に名を改めます。
付、御用で役所へ出る時は印鑑を忘れぬよう持参する。もし名代を出す時は印鑑を封印してその者に渡す。
一、田地并びに山林は永代売買してはならない。もし質物に入れる場合は十か年に限り、質手形に庄屋と五人組が証印をする。田地を質取った者がそれを作ること。御年貢や諸役は質取りの地主が勤める。切地などに致してはならない。
付、田畑質物に書き入れた証文に庄屋の証印が無い場合は効果がありません。質入れの地主が庄屋の場合は外の庄屋か年寄役の証印をとる。そうでないと効果がありません。
一、御朱印地の寺社領や除地什物等は一切質入れしてはならない。
一、衣服や諸道具又ははずし金物等出所のわからぬ物は売買はしてはならないし、質に取ったり、預かり置くこともしてはならない、又出所がわかっている物でも証人のない質物は取ってはならない。
以下の条は省略     (漢文の読み下し)

◎納庄屋として納米に関わる
納庄屋には年貢米を村から江戸浅草の御蔵まで届けねばならぬという困難な仕事がある。交通運輸の不便の時に、米のような重い物を多量に運ぶということは実に想像以上の難事であった。江戸時代の蔵納めは滝田村の例では約四百俵にも及ぶ。近隣の村を纏めて納めるのが習わしであり、こうなると総量では大変な量であったことが伺える。関の小瀬から長良川を桑名湾まで下り、桑名湾からは尾張・伊勢・美濃の村々の年貢米が千石船に積み込まれて江戸に向かった。その船には庄屋代表の納庄屋と船中の責任者の上乗が乗り込んだ。海上の危険を冒して江戸浅草の蔵前に着く。そこでは検査があって腐化米や濡米を除いて規定の数量を勘定奉行の役人に納める。これには納庄屋の手腕のいるところである。こうして納入が終わって始めて、その年の責任が解除されて皆済目録(年貢の領収書)が交付される。
文化十年(一八一三)三月、納庄屋として江戸に出向して無事大任を果たし、中山道を帰った滝田村庄屋宇平治(政道)の資料が残っている。

中山道往来一札(富加町史 上巻 資料編 五四五頁)
添触
滝川小右衛門手代
荘野確兵衛

一 軽尻馬壱疋

右、滝川小右衛門支配所、濃州加茂郡滝田村名主卯平次を明三日江戸を出立して、濃州笠松陣屋まで差し遣わした。この書面の馬を、定めの賃銭を受け取って、用意して滞りなく差し廻し、川越や渡船場や宿屋のことを差し支えのないように取り計らってもらいたい。この添触は読まれたら、この者に返していただきたい。以上
酉三月二日   滝川小右衛門手代
荘野確兵衛

中山道板橋宿から濃州鵜沼宿、それより笠松陣屋迄、道中宿々で馬を用意する事や、世話を滞りなくやるように宿場の問屋に依頼したものである。代官所の公用者として、庄屋宇平治は、蔵納めの大任を果たした心安さから、意気揚々として、この添触を示し、馬に乗って春の木曽の景色を賞でながら帰ったのであろう。

慶応二年(一八六六)十二月二日に関(現在関市)の小瀬から出た年貢船が、桑名まで下がる途中長良川沿岸の厚見郡池之上村(現在岐阜市)で難船し、三十七俵の米が皆濡れとなった事件があった。驚いた関係の庄屋を始め笠松代官所の役人が出向いて其の処置を協議した。その結果、代替えの米を十二月十七・八のうちに小瀬まで出すことになった。滝田村の庄屋宇平治(政富)はその決定をみた十二月十五日午後七時に笠松から急使を出した。急使は夜通し走り続け、滝田村の庄屋宅に寄ってから夕田村庄屋宅へ着いたのが、翌十六日の午前四時であった。そこから文書送りで絹丸村庄屋についたのが午前六時、それから廿屋村庄屋(現在美濃加茂市)方に着いたのが午前十時であった。この事はその廻文の付箋に記してあるところで、その廻文は留村から滝田村庄屋宇平治方に戻されていた。
この事件に要した入用覚帳を見ると、合計五十三両余りを使っている。その中には代官所役人に接待や贈物をして村に有利に解決しようと骨折った項も並んでいる。またこの不時の多額の出費を加茂郡中の村々で援助していただきたいという歎願書の写しも遣っているが、当時こうした相互共済の慣例があったと思われる。

◎滝田村
村名の由来は判っていないが、文書に現れるのは天正十七・十八年の太閤検地からである。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後に徳川氏による領地替えがあり、この地方を領した大島光義の知行目録に滝田村として町内の大山・夕田・小牧・きぬ丸・かじたと共に載っている。慶長九年(一六〇四)に光義卒去により遺言で遺領を四子に分配したとき、滝田村村高四九五石は第二子光政の所領となった。然し万治三年(一六六〇)所領の異動により、幕府領に取り上げられた。その後新田開発と検地により高四〇石が増加し、合計五三六石余で明治維新にいたり奉還した。
その後新田上組(現、井高)と下組(現、下滝田)とにわかれていて上組の方が戸数も多かった。然し、幕末頃から巾上地区に人家ができはじめ現在では上組の井高は戸数が減少し、巾上・下滝田地区が増加した。
享保三年(一七一八)提出の滝田村高反別有来覚差出控により、当時の状況を述べよう。この村の田畑の等級について詳しい資料が載っている。石盛によって一反歩の田畑の標準収穫量が決まっているが、先ず上々田(麦田)は石盛一五即ち一石五斗、上田は一石四斗、中田は一石三斗、下田は一石二斗、下々田は一石一斗であり、上畑は一石二斗、中畑は一石一斗、下畑一石、下々田は八斗、最下級の積下田は六斗となっている。この石盛は村によって多少の違いがある。屋敷は上畑並の石盛である。こうして全村の各筆毎の石盛がきまり、それを合計して村高となる。これに税率即ち免を掛けて村の年貢高が算出される。
家数は七五軒、その内七〇軒は高持ちの本百姓、五軒は無高の水呑百姓である。人数四一五人、馬三二疋である。当村の土質は砂土黒ぼく、稲の品種は、やろく、しらは。畑作はひえ、大豆、小豆、えごまそのほかいろいろ。絹丸村から入作高三〇石五升六合。
寺は一ケ寺で禅宗神徳山福源寺(現在は竜渕山法源寺)。宮社御堂は、白山大権現、八幡大明神、神明宮、虚空蔵、稲荷大明神、愛宕権現、愛加多権現、荒神宮、阿弥陀堂古跡、弥勒堂古跡。
庄屋給は年二石。鉄砲一挺、玉目二匁五分、是は生類おどし銃で玉なし筒、四二年前石原清三右衛門様御代官の時から所持した。
次ぎに滝田村の特殊事情として洪水の被害の多くあったことをあげることができるが、その実例として年貢上納に際し洪水被害が差し引かれている文書が数々見られる。田の外畑の被害も多い。洪水の被害を受けた田畑はもとの作地になるまで復旧に年数がかかる。とにかく滝田村は洪水の被害を受けることが多く、その復旧に営々として働き、多くの労力と費用を注いでその土地を守ったのであった。堤防工事に使う蛇篭の材料とするため、村中に薮が多くあったこともうなずける。

◎羽生野の開墾
現在の加茂野駅前(富加)の町並みのある所および付近の広大な畑地は、大正の初め頃までは俗に羽生野といって小松林が続いた原野であった。そこは狐や狸の棲む処となっていて、この林の中で道に迷うと七日七夜出てこられないという程の地域であった。関へ行くにはこの林の中の淋しい小路を歩いて行ったものであった。神宮寺山前の辺りでは追い剥ぎが出たこともあるというので、一人で行くのが恐ろしかった。
この土地の開墾を思いついた人は下滝田の板津徳弥で、氏は現役兵として歩兵六十八連隊に在営中、各務野で演習の際に、そこの土壌が羽生野の土壌とよく似ており、その畑で冬は麦、夏は甘藷が大変よく出来ていることに強く印象付けられた。除隊後百姓をしながらそれを思い出し、羽生野の土を県の農事試験場に持って行って、土壌の化学分析を依頼した。
一ケ月程して呼び出しがあり、この土壌は窒素一、燐酸二、加里一、酸度三八度の強酸性土壌であることから、酸性を中和するため石灰を施用し、中性とすれば如何なる作物でも栽培することが出来るという。この結果に自信を持って、羽生野の開墾を決意し、この原野の入手をはかり一町八反歩を買収して役場へ開墾届を出した。すると役場から開墾するなら補助金が出るので組合をつくり開墾助成法によって申請するようにとの指導を受けた。
そこで同志を勧誘し、十七名の賛同者(この外の板津姓は板津通三郎)を得て、板津徳弥を組合長として、井戸唯市を副組合長として開墾の申請を出した。この開墾組合が動機となり、高畑の山林所有者の中、所有反別の多い人に呼びかけたところ、板津盛太郎、板津庄右衛門等の賛成者を得て、約五十町歩程の大面積を開墾する事が出来た。羽生野全部が終了したのは昭和十二年頃であった。
羽生野において板津徳弥の次男板津耕一が昭和二十二年加茂山林種苗生産組合を結成し、山苗生産の振興に努力した。その功績により昭和四十四年十一月に全国苗畑コンクールで全国一位に入賞して天皇賞を受賞した。

◎学校制度
明治五年に学制が発布されるまでの一般教育は、寺子屋で行われていた。寺子屋は町村に設けられていて、その学習の大部分は手習いで、読み書き算盤の初歩を学ばせていた。寺子屋の師匠は主として神官・僧侶・医師あるいは庄屋で、その教授方法は全く個人教育であった。授業時間も確然としたものではなく、修業年限もまた一定せず、七・八歳頃から十四〜十五までの間に二年或いは三年間学んだ。個人の能力に応じて進度も異なり、優れた者は漢文の素読・開平・開立・求積の算法等を学ぶ者もあった。但し、寺子屋に学ぶ者はほんの一部の子弟だけで、しかも男子に限られていた。滝田村の場合、嘉永から方延時代までは法源寺の猶法和尚が師匠となっていた。
明治六年五月に発足した学校は、八月に大山の桂林舎(齢法寺)・羽生の誠心舎(大梅寺)の二支校を滝田村に合併し、滝田村の演劇場を校舎として恭明舎と呼んで独立校となった。十二月になって高畑の養源舎(万久寺)及び市橋村を恭明舎に合併し、神宮寺山前の市橋村字北野四六番戸に校舎を新築して恭明小学校となった。初代校長として板津玄妙が明治六年から明治十三年まで努めた。恭明小学校はその後、幾多の変遷を経て、今日の富加町立富加小学校に至った。

◎弥勒古墳碑
伝説に属するが、往古、現在の井高に弥勒寺という大寺があった。その位置は小字乗兼 (白山神社のあたり)で地名みろくとして残っている。正保三年(一六四六)滝田村検 地帳及び寛文九年(一六六九)の同村検地帳のみろくに、その寺跡があり正徳元年 (一七一一)板津喜兵衛勝吉の寄進により弥勒石像が建てられていた。何時の頃か、その 石像は移転され、現在は法源寺の門前県道に沿った所、三十三観音石仏の傍らに建っている。 表面には弥勒の立像を浮き彫りされている。井高の弥蛇庵の庭に弥勒寺にあった五輪石が 十三個ほどある。古瓦は見あたらず、寺は堂洞合戦の時に消失したと伝えている。

碑文(富加町史 上巻 資料編 七八九頁)
古来此處有一古墳 環墳皆第二種漢字田也 名其田云弥勒 又云伽藍
實遺跡平所 以石刻弥勒尊一躯 以奉安置于墳上者也
功徳主 板津喜兵衛勝吉
濃州加茂郡滝田村
正徳元歳辛卯十一月五日

◎法源寺
法源寺はかって神徳山福源寺と称し、天正年間に天猷玄晃和尚が開山した寺で、歴代板津氏の菩提寺となっていた。天保三年(一八三二)に時の住職猶法が檀徒総代の板津宇平治政富と協議の上、関倉地の徳雲山竜渕寺(天猷玄晃開山・梅竜寺末寺)と合弁した。そして山号を竜渕山とし寺号を法源寺と改めた。この時竜渕寺から現在の山門とその前左の地蔵尊石像とを移した。

猷法和尚項相 賛(富加町史 上巻 資料編 七七七頁)
滝田 法源寺四世
前任瑞泉再建猷法伯和尚大禅師久有山門新営之素願 一得往此霊境 欲創万世寺法與隆之基 辛千苦萬 忘躯自務幸有村長板津氏政富者 感其深志倶謀盡力 以是未越数年而殿堂全備両輪雙轉竟脱小林之子院 轉伝龍淵之的法 即号山曰龍淵 呼寺名法源 可謂師之功労至矣盡矣 揖化之後 嗣子写師頂相要請予一語 以表其功於無窮 其志亦善哉 然予不敏確辞再三 強請不止遂忘固陋題莠語云
飜倒龍淵舊窟 法源霊脈竟無彊
風清月白師真相  多少乃青模不當
慶応三丁卯盆夏日
前梅龍珠関道焚香頓首書

法源寺の本尊は十一面観世音菩薩である。
なお井高の白山神社で雨乞いをするときには、法源寺の住職による仏式の祈祷が行われ、村人が集まって共に般若心経を誦じて祈願するしきたりがある。祈祷が終わると必ず三粒なりと雨が降ると言い伝えられている程、あらたかなる神社である。なお本寺は無住となっている下組の庚申庵及び井高の弥陀庵を管理している。

活躍した人々
◎板津宇平治
幼名を平助と称し、元治元年六月二八日に滝田村四九番戸に板津家第十六代当主として出生した。明治八年一月より滝田村法源寺住職板津玄妙和尚について、和漢学を修めた。明治十七年十月滝田村外三ケ村戸長役場の用係となった。明治十八年六月に第三師団歩兵第十九連隊に入営し、明治二一年四月現役満期除隊をして、再び滝田村外三ケ村戸長役場の筆頭として就職した。以来滝田村村会議員・滝田村外四ケ村組合役場収入役・滝田区長を併任して、村の有力なる人物となった。明治二七年九月十七日、日清役に従軍し、朝鮮に出兵各地の守備隊として奮戦、二八年十二月二四日帰還して二九年一月一日、召集解除となって帰郷した。同戦役の功により勲八等瑞宝章を下賜された。
明治二九年五月二六日滝田村外四ケ村組合役場の書記として再就職、同年六月十八日同組合長に選出された。明治三十年四月一日新しく合村新発足した富田村の初代村長に就任して以来、三十余年間富田村々長として村政に尽瘁したその功績は極めて大きかった。
明治四十年九月三十日初めて加茂郡会議員に選出されてより、四期連続選出されて、その間には郡会議長ともなって、大いにその力量を発揮した。氏の政治力は加茂郡内はもちろん県下でも有名であった。
明治四四年加茂郡銀行の設立に当たっては、その設立委員長となり東奔西走してこれが設立につとめた。そして太田町に本店を置き、郡内外に支店・代理店を二五か所おいて、大いに地方の金融、経済の流通に貢献した。
氏は体格肥大にして豪放、人を威圧するものあり、代々庄屋職を勤めて来た家柄の育ちであったので、当時の村内では並ぶ者なく、尊敬されており、この人の一言で全て決着して、一般の者はほとんど太刀打ちすることは出来なかったとのことである。昭和三年六月十九日行年六四歳をもって病没された。

◎その他の活躍した人々
明治十七年以降昭和二十六年までの間に板津一族から富田村村長となった者は板津宇平治平助、平助の弟・板津栄次郎と忠右衛門の子・板津亨の三人であった。又昭和二十九年に富加村(町)になってからは、板津亨が昭和三十八年まで町長を勤めた。
その他富田村助役として栄次郎の子・板津章が、富田村々会議員として板津盛太郎、板津徳弥、板津茂が、又富加村々会議員として喜兵衛の子・板津卓夫、板津耕一、板津澄男らの名が見られる。
神明神社の氏子で、板津宇平治平助の弟、従七位板津七三郎が病床中、たまたま大正七年五月十八日霊夢により神明神社に多賀大神を合祀のお告げを受けて、早速大神を祀った処、病気が全快したので、多賀大神合祀の祭料金壱千円と雅楽器一揃、及び楽人・巫子の装束を寄進した。これにより神明神社の祭礼儀式は神事に併せて雅楽五常楽を合奏し、巫子二人により扇子・鈴・御弊をそれぞれかざして三種の神楽舞を奉納するようになった。
七三郎は昭和八年に「埃漢文字同源考」、一名東洋「ロセッタ石」(埃と漢字とは同じ源であるという事の論文)を著し、各宮家へ献納した。
七三郎は医者であったが、専門外の人文科学の分野に科学的な鋭い洞察力で切り込んで、二十年の長きに渡って「埃漢文字同源考」を完成させた。このため医学界や他の分野からの絶賛の声が寄せられた。
七三郎の養子を饒と云い、東京大学医学部を卒業し、後に弘済会埼玉病院長となった。饒の長男、由基郷は東京都立大学名誉教授となり、次男博之は名古屋市民病院に勤務した。
平助の三男・板津三良は慶応大学医学部を卒業し、斎生会芝病院医長などを経て、東京都渋谷区池尻大橋にて開業医を開いた。主な著書として「X線撮影と診断―図説」がある。三良の長男安彦もまた慶応義塾大学医学部を卒業し、慶応大学病院に勤務したが、のちに父の開業医を引き継いだ。著書に「与力・同心・十手捕縄」がある。
明治三十六年頃より始まった養蚕は大正時代には収繭高はピークを向かえた。蚕の品種は大正三年頃までは日本種であったが、大正四年には中国種が輸入され、大正六年には西洋種の交配種が出来て、品種が優秀となった。収繭高は年々高まり、養蚕は農村の主要産業となって、農家の家計は豊かになった。養蚕の隆盛につれて蚕種製造も盛んになってきた。板津杢兵衛と板津吉兵衛の家が蚕種の製造にたずさわっていた。
板津吉兵衛の孫・澤潟四郎こと板津昌且は名古屋大学工学部を卒業し、日本電気に勤務した。平成六年以降、大板津家のご好意により提示された系図や富加町史をもとに板津氏の歴史を調査して、本書を著した。

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