天猷玄晃和尚
澤潟四郎
板津兵右衛門が天文十八年巳酉年八月十一日に卒去した時の導師は若き天猷和尚であったの
は既に述べました。この和尚には当時の多くの武将達が帰依しています。
ここで天猷和尚と池田信輝との関係を述べよう。池田信輝は天猷玄晃和尚に帰依すると
ころが深かったのです。信輝が鵜沼にいた時期は永禄十年(一五六七)のことであり、帰依したのは
ちょうどこの頃と思われます。
天正十二年(一五八四)、信輝は長久手の合戦で戦死しましたが、遺言により遺骸を、滝田村の
隣村大山齢峯寺に運び、葬儀を行い天猷玄晃和尚の焼香を受けました。現在竜福寺には池田信輝の
遺品として槍・鞍・鐙・轡が所蔵されています。池田家と天猷玄晃和尚との関係は深く、寺の日
供帳によると、九日の命日には信輝と嫡子之助の供養が行われていました。
天猷玄晃和尚は春江派の中興というべき僧であります。永正十五年(一五一八)尾張水野郷
(現瀬戸市)の生まれで、早くから出家して諸所をめぐって修行、ついで蘭
和尚に師事して研
鑽、天文十八年(一五四九)三一才の時印可とともに道号天猷と受けました。それから関倉知の竜
淵寺(後福源寺と合弁)を開き、梅竜寺八世の住職となりました。永禄五年(一五六二)犬山内田
の瑞泉寺に一時入寺しました。永禄十年(一五六七)には加治田城主佐藤紀伊守忠能が菩提寺とし
て竜福寺を創建するにあたり迎えられて開山となりました。のち天正年間には滝田板津氏の菩提寺
福源寺(現法源寺の前身)の開山となりました。また妙心寺に輪住し、慶長七年(一六〇二)二月
二一日妙心寺塔頭護国院で示寂、八四才、諡号大徹法源禅師。
天猷玄晃和尚と福源寺、福源寺と滝田板津氏、それに天猷玄晃和尚と池田氏、池田氏と楽田
板津氏という関係があった事は歴史的な事実であります。この様に見ると、池田氏と楽田板津氏と
が主従関係を持つに至った鍵は天猷玄晃和尚にあるように思われますから、滝田板津氏と楽田板
津氏の間には何らかの関係があったと考えられます。これについては楽田板津氏の項で考察してみよう。