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板津歴史2では応仁の乱後の板津氏の歴史を紹介しています。板津氏の戦国時代における歴史は断片的な史料しか有りません。 しかもこの時代板津氏は織田信長軍団の家臣となって各地に分散したため、一族間の関連が明確ではありません。
下記の表は加賀より移住した板津氏の歴史概要を紹介するものです。一行目がタイトルです。これをクリックしますと詳細ページが開きます。
殆どのファイルはW3Cの検証を受けて、文法的には正しい事を確認しています。但しバックが青については確認が取れていません。

番号タイトルとその概要
板津一族、美濃・尾張へ移住
応仁の乱が終わった文明十一年(一四七九)に 板津政継父子(息子二人・娘一人)の四人家族が美濃の加茂郡に移住してきました。長男が滝田板津氏の祖に、次男が万場板津氏の祖に、そして女子が大県神社の 神主重松家に嫁ぎ、そこから母方の姓を名乗って楽田の板津氏の祖になったと推定されます。
これとは別に定慮の子若狭守貞久の名が長享元年(一四八七)に書かれた今洞白山神社の「白山神社建立開暦之覚」という古文書に記載されています。 定慮とその子貞久の移住時期は滝田板津氏とほぼ同時期と考えて良いでしょう。
一方、天文九年(一五四〇)若狭の湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流れて来た御神体を拾い上げ三国神社の正智院に納めたという事実があります。
戦国時代の滝田板津氏
滝田板津氏は移住後土岐家をたよって、源氏の姓を名乗ることを許されましたが、結果的には郷士として受け入れられたと思われます。
板津政継の孫、板津兵右衛門尉源頼光は天文元年(一五三二)の頃、濃州猿啄城の城主土岐頼吉(田原左衛門尉頼吉)の軍師として、福地太郎右衛門之尉等と共に斎藤八郎左衛門 俊直(利直)のこもる小野山合戦において比類無き働きをしました。
板津兵右衛門が卒去する二年前の天文十六年(一五四七)一月四日、田原の家臣、土岐支流の多治見修理は田原左衛門尉頼吉が祖母の法要で大泉寺へ出かけた 隙に猿啄城を奪取しました。その他のことは次項で詳細に記述しています。
板津兵右衛門と土岐頼吉(田原左衛門尉頼吉)
板津兵右衛門の主、猿啄城主土岐頼吉というのは土岐氏支流の田原左衛門尉頼吉のことです。従来、「新撰美濃志」などにより田原左衛門尉頼吉が猿啄城 を一五三〇年に築城したものであると信じられていました。しかし近年発行された関市「竜泰寺史」によると、田原左衛門尉頼吉は嘉吉元年(一四四一)猿啄 城主であった西村善政を殺害して城主になったと云っています。
しかし「竜泰寺史」をつぶさに検証すると、史料に信憑性がなく、「新撰美濃志」等の史料や「滝田板津氏の記録」から考えて、嘉吉元年の田原左衛門尉 頼吉の存在は否定されるべきであろう。
田原左衛門尉頼吉の実像と虚像
西村豊前守善政の家臣、山田正澄が西暦一四五〇頃に書いた「山田右馬之尉正澄由緒の写」には「田志見(田治見)ノ城主修理大夫頼吉猿喰城ヲ攻ム」 とあります。
また一七〇〇年頃に書かれた「竜泰寺二十五世透空正鱗禅師」の中に「猿喰城主西村豊前守善政嘉吉元酉年正月九日月江之時詣テ大泉寺隋例設大斉會時 田原左衛門尉頼吉隔吉末木曽川及一戦善政終為頼吉」とあります。
つまり、田志見(田治見)ノ城主修理大夫頼吉が二五〇年も後に歴史的根拠もなく田原左衛門尉頼吉に書き換えられてしまった訳です。
加治田の勇士白江庄衛門
戦国時代、滝田の隣村である加治田に板津氏の分家である白江氏が移住していました。同族の板津・白江の二氏が滝田と加治田の至近距離に居住していた ということは、単なる偶然とは考えられません。
美濃の加治田の勇士、白江権左衛門(喜左衛門又は庄右衛門ともあり)は南北山城軍記、堂洞軍記、永禄美濃軍記などに、見えます。
白江庄右衛門が文献上、最初に登場するのは永禄八(一五六五)年八月二十八日の堂洞合戦であります。信長方にあった加治田の城主・佐藤紀伊守の家臣 として活躍しました。その後、佐藤紀伊守の後に城主となった齋藤玄蕃頭が死去すると、白江庄右衛門は兼山城の森氏に仕えました。
天猷玄晃和尚
天猷玄晃和尚は、佐藤紀伊守や池田信輝らの武将達が帰依した高僧です。天正十二年(一五八四)、池田信輝は長久手の合戦で戦死しましたが、遺言により遺骸を、滝田村の隣村大山齢峯寺に運び、葬儀を行い天猷玄晃和尚の 焼香を受けました。池田家と天猷玄晃和尚との関係は深く、寺の日供帳によると、九日の命日には信輝の供養が行われていました。
滝田板津氏に関係がある関倉知の竜淵寺(後福源寺と合弁)を開き、梅竜寺八世の住職となりました。天正年間には滝田板津氏の菩提寺福源寺 (現法源寺の前身)の開山となりました。
戦国時代以降の万場板津氏
滝田板津氏の伝承によれば、文明十一年(一四七九)滝田板津氏の初代政吉の弟政次が万場に居住したとあります。一方、万場板津氏の分家である今泉 板津氏の伝承によれば、文明十一年加賀を離れ、太田に寄宿し、文明十四年に初代時範が太田の住民となったとあります。
政次の嫡男九兵衛光定(今泉伝承では時定)は永正年中(一五〇四〜二〇)合戦のため京都に度々出張していました。出張の理由は足利将軍家、及び 細川宗家の内紛とが重なって、京都界隈では度々戦が起こっていたからでしょう。
その後の資料は途絶えていますが、西暦一七〇〇以降の系譜は「中山道太田宿に生きた人々の系譜」に記載されています。
戦国時代以降の蛭川板津氏
板津氏は蛭川村の親王伝説に出てくる。親王伝説では親王に供奉した重臣を、四家七党あるいは四家七名字・七名家などと云っている。 親王が東濃へ足を運ばれたときの従者を四家といい、今村・不破・板津・林の四家とした。
永正七年(一五一〇)板津定慮(豊後守)は加賀白山、白山姫大神を奉持して、濃州加茂郡今村(今洞)に移住したと伝う。文明十九、定慮の子若狭守貞久 の名は今洞白山神社の「白山神社建立開暦之覚」という古文書に記されている。初代定慮の移住以前にその子・貞久が白山神社の棟札に名をつらねているという 事は奇異であるが、「蛭川村史」の記述をそのまま使用した。
戦国時代以降の金川板津氏
天野信景によって、纏められた「塩尻」所載、犬山楽田の大県神社神主を歴代つとめる重松家系図の中に板津中務少輔正平が見られる。
正平の子孫と伝承される板津善右衛門藤原休トが池田氏の家臣となり二〇〇石を賜ったと金川板津氏の家伝書は伝えています。 この板津氏は、池田氏の家老である日置氏の家老となっています。
10戦国時代以降の加賀・富山板津氏
加賀藩に仕官した板津氏は「諸士系譜」によると、板津了甫は瑞龍公(二代前田利長)の時に召し出され弐百石を賜り、是に三人の子息があったといいます。
長男左兵衛の子の兵助は父の家督を継ぎ三百石を賜わりましたが、のち断絶しました。二男は盲目にて検校と云い、のち子孫は二代で絶えてしまいました。 三男は八兵衛と云い、四百石を賜はり、是も曾孫亀之助に至って断絶し、遂に板津氏残らず絶えてしまいました。
「富山藩士由緒書」によると、初代了甫の子左兵衛直頼は父の家督を継ぎ、父と共に前田利長に仕える連歌師であった。直頼の子直清は寛永十一年 (一六三四)に家督を継いだが、知行高は百石減の二百石であり、寛永十六年に富山藩付きとなった。
11江戸時代以降の滝田板津氏(農民)
この板津氏は、庄屋職として五人組などに代表される掟を農民に周知徹底させる事や、各村の庄屋の代表である納庄屋となって、江戸浅草まで毎年年貢米 を無事に納める事が主な任務であった。
文化十年(一八一三)三月、納庄屋として江戸に出向して無事大任を果たし、春の木曽の景色を賞でながら中山道を 意気揚々として馬で帰った滝田村庄屋宇平治(政道)の資料が残っている。
苗字は江戸時代に百姓には無かったと考えている者がいるが、公式文書では苗字を書くことが許されなかっただけで、板津氏は私的に使うことは認められていた。
明治以降については本文をご参照願います。
12投稿論文:板津一族の調査
板津氏の事を大々的に調査したのは平野外喜平氏です。氏の研究は「古文書より見た中世寺井町地方の研究・・・・ 第一部 重友、長野村領主板津氏五代とその残影」に詳しく述べられています。この研究成果は寺井町史や新修根上町史に引き継がれ、 更に詳しく記載されました。詳細は前記史料に譲り、ここでは視点を変えて、歴史研究第五〇一号などの調査事項を加えて述べてみようと思います。
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