板津歴史3関係項目と概要内容 Valid HTML 4.01 Transitional 正当なCSSです!
下記の表は板津氏に関連する様々な史料を整理したものの一覧表です。一行目がタイトルです。これをクリックしますと詳細ページが開きます。
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番号タイトルとその概要
板津一族歴史年表
板津氏の祖、板津成景以降、板津一族(板津、長野、白江、倉光、江沼の各氏)に関係する歴史年表を表しています。 所々に時代背景を示す大きな出来事も記載しています。
板津氏の推定系図
尊卑分脈に記載されている藤原鎌足から板津氏三代目の板津家景迄の系図と、根上町史などで明らかにされた板津氏の系図と、 美濃・尾張・富山・金川に移住した板津氏の系図を加えて推定した江戸時代末期までの系図を示しています。
板津氏の全国分布
日本全国電話帳から拾い出した板津氏の全国分布を作成しました。板津氏は八割方愛知県と岐阜県に集中し、続いて神奈川県に多く、その他の県は非常に少ないのです。
板津氏は木曽川沿いの中仙道に集中しているという特徴があります。木曽川の上流から下流へと列挙すると、中津川市、蛭川村、可児市、美濃加茂市、富加町、関市、各務原市、犬山市等です。 これらの場所は非常に至近距離にあり、板津氏を名乗る人たちは不思議な縁によって結びつけられている気がします。つまり先祖は一つと思うのです。
板津氏の家紋
板津氏の家紋は大きく分けて、5つのグループに分けられます。
丸に違い鷹の羽紋は池田家家臣となった岡山県御津町金川の板津氏、犬山市内田、各務原市、美濃加茂市今泉の板津氏が用いています。
丸に三つ鱗紋は美濃加茂市万場・古井、関市肥田瀬の板津氏及び加賀藩・富山藩に仕えた板津氏が用いています。
丸に澤潟紋は岐阜県加茂郡富加町、横浜市保土ヶ谷区仏向町の板津氏が用いています。富加町の板津氏はかって丸に三つ鱗紋を使用したとの伝承があります。
丸に剣片喰紋は岐阜県蛭川村田原、中津川市の板津氏が用いています。
丸に隅立て四つ目紋は犬山市楽田の板津氏が用いています。
これ以外にも家紋が存在するようですが、調査されていません。
板津の地名
板津氏の起こりとなった地名が、加賀(石川県)の板津荘です。現在は地名は無くなってしまいましたが、板津地区という呼称で残されています。
現存しているのが、島根県簸川郡湖陵町板津です。三重県南牟婁郡紀和町には木津呂という地名があり、近くを流れる川に板津呂という瀬が有ります。 富山県には板津横穴というのがあります。
九州企救郡に到津荘というのがあり、いとうづが変化していたづになったとの説が新潟県にはあります。そして板津氏が生まれたと云われています。
この他に新潟県北蒲原の旧村板津村というのがあったとの事ですが、この板津は二つの村の文字を組み合わせて生まれた村です。 また近江の国高島郡川上荘板津木郷(現存していないし、存在したかは不明)というのが有ったとの伝承が残されています。
板津氏の歴史物語編(白川上皇の命よりも直属の主の命を重視した林成家)
白川上皇といえば平安時代の末期、飛ぶ鳥の勢いを持った方で、加茂川の流れと僧兵だけが思うようにならないといわれた人です。 上皇のおふれの中に鷹狩りなどで鳥をとれば、京都を追放するというものがありました。
平清盛の父平忠盛の家来であった板津成景の父林成家は、上皇がかって寵愛していたが今では忠盛の妻となっていた女御の言いつけで 毎日小鳥を捕っていたのです。
そのことが白川上皇に知れて、成家は呼び出されます。しかし、成家は「主人の命に背けば頸を切られるが、上皇の命に背いても頸は切られません。」 と答え、即刻加賀に追放されます。
家に伝わる俵藤太のムカデ退治の伝承
板津氏は藤原利仁の子孫ですが、俵藤太の子孫という伝承があります。考えられる根拠として、板津氏は土岐氏に仕官した時、 岐阜城城主で秀郷流藤原氏の伊賀氏の子孫を称しでいます。いわゆる先祖のすり替えを行ったわけです。
この他に、藤原利仁の権威と伝説が藤原秀郷のそれらに移行したという説があります。 これに就いての解説は、「利仁将軍から秀郷将軍への権威の移動過程」を参照してください。
利仁将軍から秀郷将軍への権威の移動過程
保立道久氏は各種の資料を用いて、鎮守府将軍の地位と百足退治に見る説話の二点において利仁から秀郷へと権威が移った過程を説明しています。
管理人の出生地、安養寺の歴史
郡上の地は朝倉氏より二度も侵略を受けています。第二回の侵略時には安養寺は東氏の依頼を受けて、時の住職七世了淳は千人程の信徒を集め、 東家よりまわした千余人分の武具長刀、猪突槍などをそれぞれに携え、安養寺了淳の指図に従って出陣しました。
永禄十二年(一五六九)飛騨國の三木自綱が坂本峠を越えて氣良の佐藤氏、畑佐(現明方村)の畑佐氏とともに八幡の遠藤氏を攻撃するため 畑佐六右衛門の砦(畑佐城)に入ったとき、遠藤慶隆(八幡城主)・遠藤胤俊(木越城主)の依頼で安養寺十世乗了は信徒若干を率いて助勢しました。
10投稿論文:俵藤太の「ムカデ退治」の検証
この宇宙が誕生して以来、全てのものは進化します。進化する以上、進化する前のものと進化したものとが互いに関連しあって存在します。 歴史の史実と歴史物語との間にもこの進化の法則が存在すると考えられますから、物語には物語を形作る史実も潜んでいると思います。
しかし、物語の史実を明らかにすることは至難の業です。なんとなれば物語の作者は過去の人物ですから、直接会って、物語の作成真意を確かめる 事は出来ません。つまり作者と向き合うことが出来なければ、第三者からの推論は広い意味では物語となってしまう危険があります。それを承知で俵藤太 のムカデ退治の史実に迫ってみます。
11能美領主板津一族の六つの謎解き
加賀能美郡長野・重友の領主板津一族については、多くの歴史家によって解明され、石川県の『寺井町史』や『根上町史』等にその内容が詳しく 記載されています。またインターネット上でも〔中世加賀の群像〕として紹介されています。しかし、未だ解明されていない部分も残されています。
本稿では石清水八幡宮等の史料から、板津一族の生年と卒年を統計的な最小二乗法によって推定する方法をまず紹介します。 この結果の知見をもとに板津一族に関して今まで曖昧となっていた事柄、例えば事件当時の領主の年齢や領主名、行動、登場人物間の関係等を明らかにします。
12史実の判断基準
これが史実だということを断言出来る人は恐らく誰もいないでしょう。何故なら我々が知りうる歴史上の知見は、古文書・人の記憶・言い伝えに 頼っており、それが史実であった事を普遍的に証明出来ないからです。歴史家は自説の推理の中に読者を引き込むように論旨を巧妙に展開していますから、 読み手が無批判でその論旨の中にのめり込んでしまいますと、それがあたかも史実であるかのような錯覚を起こしてしまいます。かといって批判を加えながら 読んでいますと、歴史物語全体がしらけて興味が半減してしまいます。歴史物語を楽しく読む人にとっては捏造があった方が面白いですから、史実であるか どうかはあまり問題ではありません。しかし歴史を正しく見つめる立場の人は絶えず史実であるかどうかの検証を加える必要があります。それでは史実であ るか否かの検証を行う基準とは何でしょうか
12もう一つの富加道
平成15年3月号の『歴史研究』の特別研究に、墨俣一夜城と『武功夜話』偽書説が掲載されました。『武功夜話』には富加道なる記載があり、富加という 町名は昭和二十九年に富田村と加治田村とが合併されて出来たのですから、『武功夜話』は昭和二十九年以降に作られた偽書と従来されていたようです。
これに対して、特別研究の牛田義文氏はこれを否定するいくつかの根拠を提示され、決して偽書ではないと主張されました。著者の論理はさすがと感心し、 私自身も決して『武功夜話』は偽書ではないと思います。火のない所に煙は立たないわけですから、従来偽書と言われたものの中にも、史実は必ず存在すると いう考えを私は持っています。ただ、富加道に対する牛田義文氏のご見解に対し、私は別の見解を持っていますので、ここに紹介しようと思います。
12神戸事件
明治維新がまさに明けようとしていた時、外人が備前藩の隊列を横切ることで大騒ぎとなった日本の歴史的な事件が神戸で起こりました。 いわゆる神戸事件です。神戸事件は、長い間攘夷を以て国の方針として拝外運動に徹していた田舎部隊が、初めて外人に接して起こった対外問題でした。
慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜は大政奉還を奏上し翌日許可されましたが、物情騒然として伏見鳥羽戦争に発展し、幕府側の軍隊はなだれを 打って阪神方面に殺到しました。
明治維新直前の慶応四年(一八六八)一月四日、日置忠尚率いる岡山部隊の先発隊・備前藩兵四百五十人は朝廷の命により一宮警備の命を受け、 西国街道を東に向かっていました。一月十一日、板津の隊列が神戸の三宮神社前にさしかかった時、外人が隊列を横切ったことで神戸事件は起きました。
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