私のカメラ歴

板津昌且

人の運命は本当に分かりません。若いときに、自分の路を切り開こうとして、遮二無二、色 々の仕事を経験しても、自分のやりたい仕事が決まらない場合があります。その一方で、何気 ない一つの出来事がきっかけで、その人の進路が開けてしまう事もあります。私の場合は、も らい受けた一台の小型カメラからが発端で、私が化学や電気という自然科学に興味を抱き、 人生の進路を決めてしまったのです。


@譲って貰った一台のカメラ
 小学校三年生の時(昭和十九年)、私は多治見に住んでいた母の母方(祖母の系)の従兄弟河合文雄氏 から、ベスト版の小型カメラを一台もらい受けました。その日は、母と私が河合文雄氏の出征 を見送りした日でした。当時、私はカメラで写真を撮るという目的を持っていた訳では ではありませんでした。従兄弟の照ちゃん(国末照雄氏:匿名)が先に河合文雄氏よりカメラをもらい、 それを私に自慢げに見せびらかしていたのです。私は子供心に大変うらやましくなり、私 も欲しいなあという単純な思いから、母に頼んで譲ってもらったのです。子供の頃の動 機というのは大体そんなものでしょう。河合文雄氏はその後戦地にて帰らぬ人となってし まい、そのカメラは結果的に形見の品になってしまいました。
 子供の頃、母と一緒に川合文雄氏の実家である多治見に二〜三度尋ねたことがあって、大 歓迎を受けたのをほのかに覚えています。私には河合文雄氏の面影はもうありませんが、私の手元 に残された一枚の写真から、優しそうな好青年(写真の左端の人)であったことがわかります。 この出来事は後になって私が化学の道を選ぶきっかけを与えたのです。


A写真の撮影
 やがて第二次大戦が終わり、中学校一〜二年生の頃、もらったカメラで写真を撮ってみよ うと思い立ちました。当時、母は名古屋市鶴舞交差点近くにあった愛知いすずという会社に勤 めていました。交差点の所に小さなカメラ屋(渡辺カメラ店と記憶していますが)があって、そ こでフィルムを買い、撮影後の現像焼き付けを頼んでいたのです。最初の写真はファイ ンダーで見た景色より、実際の写真の方が小さく写っていたのです。早速、私のカメラ をカメラ屋に見せますと、ファインダーの凹レンズが取れていることが分かりました。そこで、 修理をお願いしましたが、私のカメラに合う凹レンズは当時存在しませんでした。仕方なく、他の カメラ用のものから、出来るだけミスマッチが起こらないような凹レンズを選んでもらい、 それを私のカメラに付けてもらうことにしました。
 ここで、当時の写真撮影はどのようにして行われたか、簡単に述べてみましょう。今日のよ うな自動によって簡単に撮影ができたわけではなく、かなり頭を使って撮影しなければな りませんでした。川合文雄氏から譲り受けたカメラはベスト版(35mmフィルムとほぼ同等の幅 を有するフィルム)の小型カメラでした。シャッター速度は1/25分秒から1/500分の 秒までの間に、1/25、1/50、1/100、1/250、1/500分の秒まで五段階であり、絞りは6.3、 8.0、11、16の四段階でした。当時、白黒フィルムの感度はASA50(今の感度ではISO50)であり、 フィルムには春夏秋冬における日本標準時の時間毎に晴天の時の標準的な光量(露光時間と絞り)が示 されており、曇天や雨の場合は補正係数が与えられていて、これを参考にして、露出時間 と絞り値を暗算で決定するのです。また被写体との距離あわせは、人物撮影・風景撮影によってレンズ の銅鏡を前後させていたのです。今日のような自動的なピント合わせとはほど遠いものでした。


B現像・焼き付けの初体験
 このようにして、写真を撮り続けていましたが、次第に写真が出来上がる原理に興味がわい て来ました。早速、例のカメラ屋と相談して、焼き付けの仕方を教えてもらいました。印画紙、現 像液、定着液、現像・定着・水洗のバット(平らな容器)、白色光、安全電球、ピンセッ ト、それに二枚のガラス板、クリップなどを用意し、夜になって密着焼き付けに挑戦しました。 安全電球の下で印画紙を取り出し、適当な大きさに切断して、二枚のガラス板にネガの薬 剤部と印画紙の薬剤部とを重ねてはさみ、ネガ側から白色光を照らし、露光、現像、定着、 水洗いという作業を行いました。今思うと大変な作業でしたが、現像液に入れてしばらくす ると次第に画像が浮かび上がって来る化学変化に大変感動しました。手間は掛かりますが、こうし てなんとか密着焼きの写真が出来あがるようになりました。


Cフィルム現像に挑戦
 次に挑戦したのがフィルムの現像です。早速、また例の写真屋に相談して、フィルム 用の安全電球や現像液、定着液を手に入れました。夜になって、周りの電気を消し、狭い押入 の中で安全電球の光を頼りにフィルムを取り出し、フィルムの両端をそれぞれクリップで 留めました。そして、両端のクリップのそれぞれを両手で持ち、フィルムの帯をU字状にして、 U字のフィルムの底の部分を現像液の中に入れ、両手を上下に移動させながらフィルムを 現像液にまんべんなくつける操作を約十五分行いました。しかる後に定着液にフィルムを移し、 両手による同様な操作を約十五分繰り返し定着しました。暗室の中での都合約三十分の現像定着作 業です。定着が終わってフィルムを見るとわずかに光かぶりが生じていました。早速、例の 写真屋に相談しますと、光かぶりを防ぐためには、安全電球とフィルムの距離は十分離し、 安全電球は最初の段階だけで使用し、あとは真っ暗な中での作業を行うべきであるとアドバ イスを受けました。狭い押入を暗室代わりにして、このような現像を行うことは最初から無 理だったのです。完全な暗室もありません。手間も省けるのでベスト版の現像タンクを入手 する事にしました。
 当時の現像タンクは、タンクと、その中で回転可能な車軸と蓋から成って いました。車軸は軸を中心にして、両端に円盤状の車が取り付けられ、車と車の間隔がフィル ムの幅よりやや小さめでした。円盤状の車にはフィルムが入るように渦巻き状の溝が付 けられていた。この溝に沿ってフィルムを巻き付け、それから車軸を現像液の入ったタン クに入れて蓋をして、完全に光を遮断しました。一分ごとに車軸を数回回転してフィルムに現 像液がむらなく触れるようにします。所定時間後、現像タンクの天地を逆にして、現像液を流し 出し、水をタンク内に注ぎ込んで良く振って水洗します。しかる後に天地を逆にして水を流 し出し、定着液を注ぎ入れて、所定時間後にフィルムを取り出すのです。所が最初の作 品は見事に失敗してしまいました。所々でフィルム同士がくっつき合って、現像が出来ない部 分があったのです。また例の写真屋に相談することになったのです。溝にフィルムを 挿入するとき、フィルムが多少変形してフィルム同士が接触しやすかったのです。接触 したまま現像液に入れますと、現像液によってフィルムのゼラチンがのり状に膨潤し、隣の フィルムに付着したらしいのです。早速、参考のために写真屋での現像作業を見せても らった。現像タンクは約1メートルの深さがあり、この中でクリップの重りでフィルムを垂 直にぶら下げて現像するタイプでした。これでは絶対にフィルム同士が付着し合うこと はないのです。
 この方式は家庭では無理であるので他の良い方法はないかという事にな って、フィルムを車軸の溝に挿入する前にフィルムを一度水の中に浸し、水中でフィルム を車軸の溝に挿入するという方法を採りました。これは結構面倒な作業ではありましたが、これ以 後現像の失敗はなくなりました。その後しばらくしてもっと良い方法はないかと例の写真屋に相 談すると、ブローニー版の現像タンクというものを見せられました。この現像タンクはフィル ムと帯状のスペーサー・フィルムとを重ね合わせながら車軸に巻いてゆく方式でした。 スペーサーはフィルムと同じ幅で、幅の両端には約二ミリの幅の波打ったヒダがあり、 このヒダによりフィルムとスペーサーとが所定の間隔を保つようになっていました。これなら ば絶対にフィルム同士がくっつかないのです。しかし残念ながらベスト版には市販され ていないという事でした。当時ロールフィルムの主役はブローニーと35mmであり、ベス ト版を使う人は非常に少なかったのです。



Dあこがれのカメラに出会う
 やがて中学生活も終わりに近付いた頃、修学旅行で京都に行くことになりました。生徒達は 思い思いの写真機をもって来る者がいました。藤塚君は名刺判のガラス製乾板を使うカメラを 持っていました。特に私の興味を引いたのが坂見猪兵衛君(かれは野球が好きでポジションは 最初捕手でしたが、高校時代は投手でした。立教大学に入り、ここで同期の巨人 で活躍した若き日の長島茂雄選手達と野球をやることになる)が持ってきたのが小西六写真製 のセミパールという折りたたみ式のカメラです。このセミパールは彼の写真機ではなく、 家族の誰かから借りてきたものでした。このカメラは小型で携帯に大変便利でした。し かも写真のサイズがベスト版の約二倍のブローニー版ということもあり、私はこのカメラ の虜になってしまいました。
 修学旅行から帰ったある日のこと、別のクラスの担任で、セミパールを持っていた谷崎 先生から密着焼付を行うから手伝いにこないかと誘われました。早速学校で密着焼き作業を行 うことになりました。谷崎先生は手作りの密着器を持ち込みました。一通りの密着作業が終わり、 密着器の構造を教えてもらうことになりました。構造は極めて簡単で私にも出来そうだと思いました。 勿論、私は当時そういう密着器が市販されている事は例の写真屋から知らされていました。 しかし当時どんなに私の小遣いをはたいても手に入る代物ものではなかったのです。早 速、必要な資材として、薄板、ガラス板、フェルト、蝶番、板バネ、ソケット、電球、安 全電球、コンセント付き電源コードなどを準備し、先生のものとそっくりの密着器を作り 上げてしまったのです。


E手製の引き延ばし機による引き延ばしの挑戦
 次に挑戦したのが引き伸ばし器の作成です。当時の写真雑誌に載っていた記事を頼り に作り上げる事になります。引き伸ばし器は薄板、コンセント付き電源コード、パラフィン紙 による拡散板、集光レンズ、黒色厚紙による蛇腹、引き伸ばし用レンズなどから構成され ます。最大の難関は集光レンズと引き伸ばし用レンズの入手です。集光レンズは光透過特 性の良いガラス製レンズを用いなければなりませんが、これも当時はとてつもなく高く且つ 入手難でした。予算の都合で、光学特性を犠牲にして大型虫眼鏡を使うことになりました。 次は引き伸ばし用レンズですが、専用のレンズはとても手に届く値段ではありませんでしたし、 その上市販されているベスト用の標準レンズはなかったのです。私の少ない小遣いをは たいて名刺版専用の中古品のレンズを例の写真屋から入手しました。工作で工夫したのは拡大 率の調整と蛇腹などからなる焦点調整を独立的に行うスライド機構です。こうして出来 上がったもので引き伸ばし作業を行う事になりましたが、ベスト版のフィルムでは最大でキャ ビネ判の写真しか作る事が出来ませんでした。原因は引き伸ばし用レンズの焦点距離が長かっ たのです。ベスト版では焦点距離が50mm弱のものを使うのですが、私のレンズは焦点 距離が150mmと大きかったからです。
 この問題を解決するには焦点距離を短くするか、ベスト版からブローニー版へ変更する 以外に手はありませんでした。そこで引き伸ばし用レンズとして焦点距離の短いカメラのレンズを 使うことを思いついたのです。早速、藤塚君に頼んで名刺判の乾板で写す写真機を借り ることにしました。どうやらこの写真機は私の作った引き伸ばし器に上手く取り付けられるこ とが分かりました。早速引き伸ばしを行うとこれが見事に成功したのです。それ以来引き伸 ばし作業のたびに藤塚君より写真機を借りる羽目になってしまいました。


Fあこがれのカメラ、セミパールの入手
 高校に入った祝いとして念願の小西六写真製のセミパールUBという写真機を買ってもら いました。このカメラは撮影後、カメラの後ろ枠の窓を覗きながら、次の番号が現れるまでフィ ルムを巻き上げるのです。この作業は大変面倒でしたので、フィルムの巻き取り幅が 一コマ分になると、巻き取りが停止する巻き取り機構を追加してもらいました。このため、この カメラは世界でたった一台という貴重なカメラとなりました。
 高校二年生になった時に待望の引き伸ばし器を級友の神谷君の店から買い入れました。 これで写真機、引き伸ばし器、現像タンクの三点セット及び薬品調合のための天秤を揃え ることが出来たのです。 


G現像の魅力にとりつかれた
 このころになると、二坪ほどの広さがある風呂場を写真用の暗室に改造していました。私は 写真の色をセピア調に変える、真っ黒な黒、少し紫がかった黒、緑ががかった黒の写真を 自由に作り分ける事に興味が移っていました。というのは出来上がった写真の色が黒と言って も色々な黒になる事がわかってきたからです。これは現像液の作り方、現像液のエージ ングの仕方、現像温度、印画紙のメーカーなどによって変わるのです。特に私の好きな 色は少し紫ががかった黒でした。その色の写真を見ていると実に暖かみがあって心が和む のです。こういう傾向の黒色は小西六写真製の印画紙で現れやすかったのです。富士フィルム の印画紙はどちらかと言えば緑がかった黒で、明るい感じではありましたが、私の好きな色で はありませんでした。そんなことから、私は小西六写真製の印画紙を好むようになっていました。
 色の次に私の舞味の対象となったのは引き伸ばしをしても写真の粒子を荒らさないこと でした。当時写真展ともなれば四つ切りが一般的であり、この大きさに引き伸ばしても 粒子が目立たなくしたかったからです。当時微粒子の写真を作る現像液として、ミクロ ファインというものが市販されていましたが、私はこのミクロファインよりも微粒子の現像に 興味を抱いていたのです。専門誌からSease Vという処方に使用されていたパラミンお よびグリシンという薬品の名を知り、名古屋市内の写真屋や薬品問屋をかけずり回って探 しあてました。今でもSease Vで現像した写真やフィルムが残っていますが実に粒子が小さいの です。むしろ写真の解像度の方が問題でした。このころ集められた薬品は実に多くを数 えました。今思い出してみると、メトール、亜硫酸ソーダ、炭酸ソーダ、ハイポ、酢酸、テト ラ・ヒドロオキシ・エチレン、アニリン、パラフィン、苛性ソーダ、硝酸、重クロム酸カ リウムなどなどです。


Hカラー引き延ばしの挑戦
 次ぎに挑戦したのがカラーの引き伸ばしでした。これには液温の制御と色合わせとい う二つの難関がありました。黒白写真の場合は現像液の温度コントロール幅は比較的大きく、 真夏や真冬には簡単な操作で温度コントロールが出来ました。しかし、カラー写真の場合は所 定温度に対して±1度に温度コントロールしなければならなかったので、サーミスターを 使用した電子式の温度コントローラーを自作していました。カラー引き伸ばしに取ってもう一 つやっかいな色合わせ作業というものがありました。当時、引き伸ばしはフィルムメーカーに依頼す るのが常でした。当時のカラーフィルムはロット毎にフィルムの色特性が異なり、現像後 のフィルムには色補正記号がつけられていました。その記号に応じて色補正が行われてカラー プリントが出来上がっていました。当時、小西六からカラー用印画紙は売り出され ておらず、オリエンタル写真からのみ売り出されていました。従ってフィルムメーカーと印画紙メ ーカーが異なるために、色補正記号が素人には何ら役立たないものでした。そこで色補 正用フィルター(濃度が数種類あるイエロー、マゼンタ、シアンの三色から成る)が市販 されており、このフィルターを使って色補正を行って、カラー写真を作る必要がありました。 従って最初の写真はまず感を働かせて思うところのフィルターを組み合わせて、引き伸ば し、現像、脱銀、定着等々の一通りの処理を終えた後、出来上がった写真の色をチェック して再度フィルター補正を繰り返すという、それは大変時間のかかる作業を行っていたの です。しかしこうした作業を繰り返しても、今日見られるような色調にはなかなかなら ず、何となく色が付いているというものでした。とはいえ、私にしてみれば色が付くと いう事は写真の原理からして画期的で不思議な現象でもあったので、カラー写真が自分の 目の前で出来上がることに胸をふるわせながら興奮したのです。
 今考えてみると、色の知識もなく、勘を働かせて、遮二無二、色あわせを行っていたわけですから、 色が正確に合うはずがなかったのです。


IオリンパスペンからミノルタSR-1へ
 日本電気時代、フィルムの主流は35mmmフィルムへと移っていました。安月給のみでは高級 カメラの購入は無理でありました。そこで当時35mフィルムのハーフ版が比較的人気でした。 倍の量の写真が撮影できるし、軽量小型であったから何処へでも持参できる優れものでした。そんなことでオリンパスペンというハーフ版のカメラを入手することになりました。し かし、このカメラ、確かに撮影枚数が多いが、引き延ばしで拡大した場合、解像度が甘 い、粒子も大きいという欠点がありました。そこで、本格的に一眼レフカメラのミノルタSR-1 を購入しました。その一方でオリンパスペンは会社の同僚、安田嬢に売り渡してしまいました。
 次に手にしたのがミノルタSR-1というカメラです。これは35mmの一眼レフで、当時とし ては比較的高級でした。この時代まだ露出は手動で、ライトバリューという思 想が取り入れられていました。これはシャッター速度と絞りの関係で、露光量を一定の数値で 扱うやり方です。このためシャッター速度と絞りにそれぞれ、ライトバリューが与えら れ、両者のライトバリューの和を一定にする、シャッター速度と絞りを決定するやり方で す。下表を見て頂きましょう。シャッター速度と絞りにはそれぞれ独立のライトバリュー(LV) が付けられています。

シャッター速度とライトバリュー(LV)の関係

シャッター速度 1 1/2 1/4 1/8 1/15 1/30 1/60 1/125 1/250 1/1000
LV 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

絞りとライトバリュー(LV)の関係

絞り値LV 1.8 2.8 4 5.6 8 11 16
LV 1.7 3 4 5 6 7 8

 フィルムには撮影条件に応じたライトバリューが与えられていて、シャッター速度と絞り のライトバリューの和が指定されたフィルムのライトバリューになるようにして撮影するのです。
 こうしてシャッター速度と絞りは、撮影シーンに応じて、複数の組み合わせの中から、一 つを選択して、撮影することになります。例えば動きのある被写体ではシャッター速度を速め、絞 りを小さくするのである。また、記念撮影の場合は絞りを大きくして、シャッター速度を遅 くする様に組み合わせるのです。
 この頃から、露出計が別売りで売り出されていました。まず、ライトバリューを計測し、それ から、シャッター速度と絞りを手動で決めて、撮影するのです。
 明るさのアンバランスのある被写体では、標準反射板(反射率十八%)を用いて比較的正確な 露出を与えることが出来ました。今日の自動露光は、大変便利ですが、こういう細かい芸当が 出来ないので、特に露出許容度(ラチチュウド)の狭いデジタルカメラでは露出のアンバラ ンスが現れてしまいます。
 このカメラは子供達が成長してしまってからは、ほとんど使われることがありませんでした。長い 長い眠りに入ったのです。


Jデジタルカメラの入手
 平成五年頃から、デジタルカメラの開発が進められてきました。仕事の都合上、小物の写真撮 影の必要から、三十五万画素数のカメラを入手しました。この画素数はテレビと同じ画素数に相当す る物なので、手に入れた次第です。しかし、手に入れてみると、満足できるような機械で はありませんでした。色はとてもフィルムには及びません。

やがて七十万画素のデジタルカメラが現れました。業務の関係から、勤務先の日本電気エンジニアリング社で 購入しました。三十五万画素に比較すると、確かに色の再現性は向上しましたが、まだ色彩に濁りがあって、 満足すべきレベルでは有りませんでした。
 平成十年頃にリコー製の百万画素数のデジタルカメラを手にしました。確かに三十五万画素や七十万画素のものと比較すると、 画質も色も良くなっていました。しばらくの間愛用しましたが、何となく画質が甘いのです。しかも、 色彩にも濁りがある等、満足すべきものではなくなってきました。 平成四年頃に二百万画素の十倍ズームのデジタルカメラに切り替えました。
 このカメラはブレ防止機能がついていて、十倍ズーム時でも、ブレは極めて小さくなっていました。色彩もまずまずであり、 これより長年愛用することとなりました。しかし、冬場での撮影では何となく、褐色系が強く、緑の光景も緑が 褐色気味となるなど、条件に依って色が満足しない事がありました。

とうとう平成十八年五月に九百万画素の十倍光学ズームのデジタルカメラを購入しました。
 画質は確かに二百万画素のデジタルカメラよりも良い。緑や赤といった色が鮮やかです。 やはり購入して良かったと思いました。ところがフリーの画像処理ソフトにて、色調整を試みると二百万画素 のカメラで撮影した画像と比べると、どうも様子がおかしい。調整によって二百万画素も九百万画素と色 については遜色のない迄に調整出来るのです。その色たるや自然界の色よりも透明となっています。 余談であるが地上デジタルテレビ画像のような見た目に綺麗な色彩である事に気付きました。
 ここでふとある考えがよぎりました。かってアンプといえば真空管全盛の時代がありました。だが、次第に半導体 アンプが取って代わりました。音はシォリシャリとした金属的な音です。ところが近年、真空管式アンプが 静かなブームになっています。暖かみのある音が魅力的なのでしょう。
 これと同じように、デジタルカメラがフィルム式カメラを凌駕しても、またマニァ達がフィルムの魅力 にとりつかれてしまう時代が来る予感がしてなりません。

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