作者澤潟四郎の生い立ち概要

板津昌且

澤潟四郎はペンネーム、姓は板津、名は昌且、曾祖父母の出身は岐阜県富加町で、私は曾祖父母より数えて四代目、 家紋は丸に澤潟、よって澤潟四郎と称します。
  一九三五年六月、作者澤潟四郎は鵜飼いで名高い岐阜市長良川上流の郡上郡(現在の郡上市) 白鳥町大島寺内で産声を上げました。

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この地は戦国時代に一向宗の安養寺があった所。安養寺は、地元の武将東・遠藤両氏の庇護 の元、強大な勢力を誇っていました。戦国時代には反織田氏方となり、武田氏、朝倉氏等から加勢 を求められていました。江戸時代には武装解除され、郡上八幡市に移転しました。寺内にはかってこの 地に安養寺があった事を示す安養寺旧跡懐古碑が立っています。

安養寺旧跡懐古


郊墟草幾星霜、維昔
淳公古道場金碧殿楼帰
一炬蓬蒿風雨只回牆縦
移法旆弘済、今見宗基
催感傷行客繽粉懐旧涙
停節誰不嘆滄桑
 序二十世法嗣
   釋 暁 了 賢 英



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幼年時代は国鉄職員だった父の勤務地でした岐阜県飛騨地方を縦断する高山線沿線各地を転々 と移り住みました。小学校入学直前に名古屋市瑞穂区前田町に移り住みました。

一九四二年四月、瑞穂小学校に入学しました。小学校二年生までは、空襲もなく、きわめて静かな 小学校生活でした。しかし、小学校三年生の終わり頃、米軍の空襲が激しくなってきました。

昼間はB二九爆撃機が空高くから、爆弾を投下し、至る所で爆裂する音が聞こえていました。戦争が激しく なると艦載機という飛行機が低空飛行してきて、一斉射撃してきました。幸いにして私の住んでいた ところには、そうした被害はありませんでした。夜になるとB二九は比較的低空に現れました。日本の基地からは 探照灯なる光があちこちからB二九めがけて投射され、追跡していました。素人目にみれば、これで高射 砲を打てば打ち落とされるだろうと思いましたが、高射砲が撃ち込まれても、いっこうにB二九が墜落す る気配はありませんでした。B二九は照明弾なる物を悠々投下し、あたりを真昼のごとく照明し、続いて焼夷 弾を投下してきました。投下してしばらくすると花火のごとくきれいでした。だが焼夷弾の高度が低く なってくるとそんな雰囲気に浸るわけに行かず、必死の消火作業に移るのです。

当時、民家は軍の命令で、すべての天井板を除去させられていました。焼夷弾は屋根を突き破る力はありますが、天井板で とどまってしまう危険があったからです。

この命令は確かに効果があり、平屋建ての家では投下 された焼夷弾はほとんど一階の畳の上で止まっていました。焼夷弾が家に落下しても、隣近所 総出で消し止めることができました。我が家もこの事で消失は免れたのです。一方小学校にも焼夷弾 を投下されました、民家のように天井板を取り除くこともできず、夜間の消化も人員を動員する事が できず、とうとう校舎は焼夷弾の投下により、全焼してしまいました。

このため、学校側では生徒の集団疎開又は縁故疎開を決定しました。私は縁故疎開を選択し、出生地の 岐阜県郡上郡(現在の郡上市)白鳥町大島寺内に疎開し、四年生の一学期より白鳥小学校大中分校(現在は大中小学校となっています)に通学する ことになりました。四年生は一クラスであったため、従兄弟のノブちゃんと同じ学年で同じ先生に教え を請うことになりました。学年担当の先生は女性の大井先生でした。大島より南の大和町に住んでおり、 毎日、長良川にかかっている鉄橋を渡って学校に通っていたと記憶しています。この先生にはエピソ ードがありました。ある日、蜂に刺されて身体がふくれあがる事件があって、子供たちが「大井チクチ クけつぽんぽはれた」などと騒いで居ました。

疎開先での生活はきわめて楽しいものでありました。なにしろ今まで経験したこともない数々の経験 をしたからです。学校から帰れば、魚取り、水泳と、夜はウナギの捕獲のための置き釣りと、遊びに 事欠きませんでした。長良川に大淵というところがありました。近隣の子供たちが良く泳ぐところでもあり、 又つりの良いポイントでもありました。大淵には大きな岩からできた淵があり、水の色が青かったのでか なり深いところでした。こんな条件でも土地の子供たちはすいすいと泳いでいました。それを見て私 もあのように泳ぎたいと思っていました。いつもは従兄弟達とやってきていましたが、ある日ひとりで やってきました。大淵よりやや下流で、川底が見えるところで、此処なれば泳いで大丈夫だろうと判断して、早 速すいすいと泳いでいきました。途中一休みしようと泳ぎをやめて、川底に立とうとしましたが、深くて立 つことができず、あわてふためき、必死に川岸に泳ぎ着きました。野山に行けば、わらび、ゼンマイな ど山菜にあふれ、各種のこけも収穫できました。それに木の実にあふれ、栗、柿、グミ、桑のみなども 大好物でありました。

桑畑が多かったことから、この地域では養蚕が盛んでした。農家の主婦たちが収穫した繭から 糸を紡いでいる光景に惹かれ、しばしばその場を訪れじっと観察していました。また稲の耕作にも経験 することもできました。田んぼの耕しを手伝い、従兄弟の叔父叔母たちが刈り取ってきた雑草などを、 耕した田の下草として土の中に埋め込む作業が続いていました。この作業は足の裏が少々痛みましたが、結構楽 しいものでした。次が田植えでした。近隣では田の中に鯉の稚魚を放流しているのを見かけました。 この地方は水が豊富でしたから、ほとんどの家には池があり、大きな鯉が泳いでいました。また、田 の雑草取りもつらい仕事でありましたが、手伝う事ができました。

この地方で特に私を悩ましたのは、三つほどありました。一つは野や田んぼのあぜ道に横たわる蛇で した。同級生の中には蛇をわしづかみにして、平気で自分の体に這わしている者もいましたが、私は 蛇が大変苦手でした。時には農家の鶏などをねらって家まで進入することもありました。次がブヨとい う小さい虫に体をさされ、足や手の皮膚がブヨフヨにふくれあがる事もしばしばでした。もう一つ がうるしの木などのかぶれの木にふれて、皮膚がふくれあがる現象でした。後者の二点について はいつも、叔母たちが大変気にかけていた様で、そういう危険のあるところには近づかないよう気 遣っていました。

昭和二〇年八月十五日に終戦のラジオ放送を聞きました。大人たちから、日本は負けないという事を 聞かされていたため、悔しさが心をおそいました。二百二十日直前の九月の終わりに、名古屋に戻ってきました。

小学校の校舎は消失していたため、クラス編成は地域によって区分けられ、学舎はもっぱら、神 社の境内か、お寺の金堂でした。五年生になってから、一応バラックの校舎が完成しましたが、すべ てのクラスが入るわけにいきませんでした。このため、青空教室との併用での授業が行われました。六 年生になった時、ほぼ校舎は完成しました、低学年は二部性で、一つの教室を午前と午後で使い分け るという不自由を味わっていました。

一九四八年四月に萩山中学に入学しましたが、まだ校舎も、運動場も無い状態でした。当時は周りの 中学校とても事情は同じであり、複数の中学が旧制五中、すなわち熱田中学の校舎内に入っていました。 ここは昔の古墳があった学校で、この古墳が生徒たちの絶好なかくれんぼの遊び場でした。休憩の 時間帯はもっぱらソフトボールで遊びました。ソフトボールといってもボールはすべて手製でしたし、 バットも丸太を加工した物でした。グローブやミットもすべてが手製でした。ボールは中心部がガ ラス製のビー玉で、その周囲をゴム製の細ひもをぐるぐる巻きに、巻き、その上に毛糸などのくず 糸を巻き付けた、三層構造でした。現在使われている硬式のボールをまねて、皮で包み込んだも のを使用しました。ボールはすべて私が作って供給しました。

中学二年頃、萩山中学の整地が始まり、二年 生の終わりに校舎が完成しました。三年になってようやく、萩山中学の校舎に入ることができました。 萩 山中学は小高い丘の上に立っていましたが、その梺に瑞穂グラウンドがありました。当時はまだ設備が整備 されておらず、フィールドと観客席、それにマラソン塔がありました。授業の終わりに、よくフィール ドで百メートルのタイムを競って仲間と遊びました。

萩山中学三年生の時、写真の現像、焼き付け、引き延ばしの趣味を覚えました。蛇腹は黒色の紙を丁 寧に折り重ねて作り、集光レンズと引き延ばし用レンズは中古品を用い、枠組みは全て木を加工し て、引き延ばし機を作りました。今考えますと、こんな引き延ばし機をよく作ったと我ながら感心して います。なおこれについての詳細は別項で述べます。

一九五一年四月に瑞稜高校に入学しました。瑞稜高校時代にはラジオ・アンプ・無線機の制作趣味を 覚えました。体操の時間によく瑞穂グランドのマラソン塔一周をさせられました。距離にして四キロメート ルぐらいありましたので、次の授業には支障がなく学校迄帰ってこられました。クラブ活動は二年生の時、 軟式テニスを覚えましたが、この頃は体調が良くなく、体力が劣り、比較的得意だった短距離の記録も 下がってしまいました。

一九五五年四月N大学工学部に入学しました。教養部時代はかっての第八高等学校の旧校舎での勉学 となりました。三年生の時、写真の趣味の延長で応用化学を専攻しました。風呂場を暗室並びに化学実験室 に改造して、写真に使用する有機薬品の合成実験を行っていました。

一九五九年四月に大学を卒業し、N電気に就職したため、川崎に移り住みました。専門は真空管・カ ラーブラウン管の信頼性設計。

五〇歳時、子会社に移り、品質管理・価値工学等にて生産性向上の支援活動を行いました。

六〇歳時、ルーツ調査を開始し、電話帳による分布調査、居住地に赴いて系図調査、国会図書館、 地方図書館に通い、情報収集を行いました。

六七歳時現役を引退し、六八歳の時(二〇〇三年)にパソコン指導によって地元自治会へのボランティア活動を始めました。

七〇歳の時(二〇〇五年)に自治会副会長に、七二歳の時(二〇〇七年)に自治会長に推薦され、 今日に至っています。

七三歳の時、ノーベル賞物理学賞が発表され、N大学出身者が3人も同時に受賞するという大変め でたい事が起こりました。地方大学は東京大学よりどちらかと言えば、独創性に優れてい るといわれて居ましたが、それを見事に証明したような出来事でした。


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