湖陵町板津の地を尋ねて(平成九年九月七日)

板津昌且

平成六年度より、板津姓の歴史を調査し始めてからもう二年が経過してしまった。 あらかた調査は終わり、板津姓の歴史のベールは剥がされつつある。板津姓の由来は 加賀の板津郷であるが、板津の地はこの他に島根県簸川郡湖陵町にもある。この地は 板津姓の起源には関係ないが、この地の由来が解れば、加賀の板津の地の命名の由来 を解くカギになるであろう。そんなことを考えると一度は湖陵町の板津の地を訪れたい気持ちが湧いてくる。
 一方、我が娘は今年の春より交際していた阿部君と婚約の手はずがつき、十月十一日 に結納を交わす段取りとなった。
 湖陵町板津の地が出雲大社に近いこともあり、山口日本電気鰍フ協力会社である ト部株式会社へVE研修のため出張する機会をとらえ、出雲大社に我が子等の将来を祈願し、 そして板津の地を調査する目的で、湖陵町の國引荘に宿泊し、その後ト部株式会社に行く計画を立てた。
 出雲に出発する前日の平成九年九月六日は秋雨前線が九州・西日本地方に停滞し、集中 豪雨をもたらした。航空機で出雲に赴く七日の朝になっても、豪雨は継続していた。 このままでは出雲に行けないかも知れない。心配になり、航空会社に電話してみると、 場合によっては大阪空港に引き戻ることも予想されるとの事であった。もし大阪に戻 されたら、どう対処しようかと思案したが、その場合は大阪に宿を取り、その足で ト部株式会社に向かう決心をして、羽田空港へと向かった。羽田へ行く途中、天候は 曇りから次第に晴天へと回復傾向にあった。これならば出雲地方も回復に向かってい るのではないかとほのかな希望を抱いていた。
 羽田飛行場に着くと、事態は予想していたものより悪く、出雲行きの飛行機だけは 天候調査中とあり、場合に依れば欠航もあり得るとの事であった。最終的な判断は出 発時間の二十分前に行うと言うことであったので、その時間の来るのをじっと待っていた。 待つこと一時間、幸いにして天候調査中のサインは消えた。待機していた客の中から思 わず安堵の声がもれた。だが、大阪空港に引き返すこともあるとの条件が付いた。出 張で出雲空港に行く人が、出雲空港の上を何度も何度も旋回して、大阪に引き返した ことが良くあると話していた。そんな話しを耳にしたが、大阪空港に引き返した場合 の行動を予め決めていたので、躊躇する事無く、航空機に乗りこんだ。


富士山

十一時四十分発のJAS273便は予定の時間に離陸し、順調にフライトを続けた。 私の座席は14Aで、左の窓側であった。しばらくすると、富士山が左の窓から美しい 姿を見せていた。思わず「写るんです」のシャッターを押した。それから名古屋上空付 近まで順調にフライトを続けたが、飛行機の上空にも雲が広がっていた。やはりいつも と違う光景で、前線の影響であろう。やがて雲中飛行となり、段々と前線の深みの中に 入って行った。だが不思議にも、雲の中が明るいのである。ひょっとすると天候は回復 しているのではないだろうか。私の始めての出雲旅行であるから、出雲の神様が天候を 回復してくれているのではと自分に言い聞かせていた。静かに待っていると、これから 出雲空港に着陸しますとのアナウンスがあった。しばらくすると、下界が明瞭に見えて きた。着陸にはなんら支障がないようである。やがて航空機は予定通り着陸した。
 地上は雨も止んでいた。まずは出雲大社へ向かう事にした。案内所で出雲大社に行く 手段を聞いたが、タクシー以外交通手段はないことが解った。さっそくタクシーをひろい、 出雲大社に行くように依頼した。すると運転手が出雲大社を案内しますよと云うので、 始めての所でもあるから快く了承した。そして、出雲大社参拝後は湖陵町國引荘へ行くよう依頼した。


出雲大社

運転手の話ではつい先程前まで雨が大量に降っていたが、幸運にも私が乗った航空機 が着陸する頃より止んでしまったとのことである。やはり出雲の神様のおかげだと思った。 運転手は出雲大社へ行く途中、辺りの史跡や出雲の阿国の話しをしてくれた。約二十分程で出雲大社に着いた。


出雲大社での祈願

出雲大社に着くと、大社の建築物や松並木の話しなどを説明し始めた。松は随分と年 輪を刻んでいるらしく、堂々たる風情を呈していた。松並木の向こうに、出雲大社の本 殿が見えた。本殿の前で、子供達の縁結びを祈願した。そして娘のためのお守りを 求め、記念写真を撮って、再度タクシーに乗り湖陵町へ急いだ。出雲大社から湖陵町ま では九号線で約二十分の所である。湖陵町に近づいたので、國引荘に行く前に下見のため、 板津の地をぐるりと一周するよう運転手に依頼した。三時に國引荘に着き、チェックインした。
 板津の地に行く計画を立てるにあたり、湖陵町の詳細地図を東京のブックセンターに て探したが、出雲市に付随した概要地図しか手に入れることが出来なかった。湖陵町に 行けば、詳細地図を手に入れる事も出来るものと期待していた。早速國引荘にて付近の 詳細地図を入手しようとしたが、ここでも概要地図しかなかった(翌日湖陵町を去るとき、 こうなん駅の駅員より湖陵町役場発行の詳細地図のコピーを入手した)。やむなく概要 地図を入手して、板津の地を約二時間をかけて散歩することにした。
 板津の地は出雲市の西に隣接した湖陵町の中にある。東は神西湖、西は日本海に面した 地域である。神西湖は出雲風土記の中に出てくる神戸水海である。かっては今の三倍の広 さであった事が出雲風土記に記載されている。日本海は美しい砂浜の海岸で、海岸に接し た所は小高い丘陵地帯となっている。國引き伝説では、意美豆努命が綱で引いてきた土地 (出雲大社の北にある今の日御崎)が離れないように三瓶山に杭打ちして、綱の端をしっ かりと固定したと言われています。小高い丘陵地帯が綱の部分に相当するようです。小高 い丘陵地帯から平坦な大地が東に広がり、神西湖に至っている。


板津交差点

國引荘を出て、右折して暫く行くと九号線に突き当たる十字路に出た。その十字路の向 こう側、道路の左角に湖陵郵便局がある。左折して九号線に入り、これを南へ登って行く 途中の十字路に板津上口というバス停留所がある。十字路を右折する道路を境に、右側に 内藤鉄鋼、左側に板津区墓地がある。さらに九号線を登って行くと板津交差点に至る。


板津交差点を北へ右折した所

板津交差点に直交した道路は板津線と呼ばれ、右折すれば西幼稚園と勤労者体育センターへ至 る標識がある。九号線を右折して板津線に入ると十字路に出る。十字路の手前・道路の右 側に煙草屋、左に勤労者体育センターがある。十字路を左折すると勤労者体育センターに 隣接して、道路の左側に西幼稚園、その向こう隣りに板津児童公園がある。


板津児童公園

児童公園は昔の板津小学校の跡地らしく、二宮尊徳の銅像がある。さらに右に湾曲した道路を行くと、 十字路に至る。この十字路の手前・道路の右角にパーマ屋がある。右折してパーマ屋の横 に出ると、今は誰もいない、板津公民館がある。更に進むと板津線に突き当たりるT字路 に出る。左折して板津線を暫く歩くと、右側に古めかしい神社が丘の上に見える


神社

神社に至る路がT字型に分岐しており、右折してバイパスに入り、荒神社へ向かった。道路の右 側に真新しい立派なコンクリート製の鳥居があり、そこから十数段の階段を登ると一対の 狛犬が鎮座していて、その奥に古めかしい荒神社の本殿がある。神社を過ぎるとバス道路 に突き当たるT字路に出る。T字路の手前、道路の右角にはお地蔵様が丁寧に祀られてい る。左折すると、直ぐに板津線と交差する十字路となり、右折してし板津線を進むと、海 岸線と並行に作られた広い道路にぶつかる。板津線はそこで終わり、広い道路の向こうは 広々とした日本海である。小高い丘の上にある広い道路から見た日本海は美しい海岸で、 夏ならば絶好の海水浴場となるであろうが、この時期、人一人いない荒涼とした海岸として見えた。


板津公民館

暫く海岸を眺めた後、今度は板津線を引き返す事にした。荒神社への分岐点と板津公民 館への横道とを通り過ぎると先程の煙草屋の十字路に出た。この十字路を右折すると板津 児童公園に至り、直進すると板津交差点に至る。そこで新しい道へ行くため、左折した。 しばらくして三差路(これは後で解った事だが十字路である)に出たので、これを右折した。


板津墓地

暫く歩いて行くと板津区墓地に至った。予めの調査で所在が確かめられている板津東とい うバス停留所はまだ見つかっていない。そこで墓地より思い切って、元の路へと引き返し、 先程の三差路に出た。よく見ると三差路ではなく、進行方向に細い道路のある十字路である 事が判った。直進してこの細い道路を進めば板津東に行き着くのではと思った。やっとの 思いで、数軒の農家の前を通り抜けて行くと、意外にもこの道路は先程の荒神社の前に出 た。どうやら方向感覚が錯乱しているようだ。更に進んで、先程のバス道路にぶつかり、 今度は右折してバス道路を進んだ。
 一人の老人が同じ方向に歩いていたので、板津東のバ ス停留所はどこかを尋ねると、この路を真っ直ぐ行くと板津東のバス停留所に出ると教え てくれた。老人と一緒に暫く進むと、道路の右側にお地蔵様があり、老人はそれを見ると 手を合わせた。更に進むと今度は左側に荒神社の分社と見られる祠があり、そこでも老人 は手を合わせた。信心深い老人だ。いやひょっとすると此の辺りの人は皆信心深いのかも 知れない。老人に板津の地の由緒を聞いてみると「枝津」が起源と考えていると答えてく れた。荒神社は出雲風土記に出てくる大変古い神社であることも教えてくれた。やがてT 字路となり、そこに板津東のバス停留所があった。ここで老人に礼を述べて、老人と別れ た。
 この停留所を右折すると十字路に至った。よく見ると、先程板津墓地から来た路と直 交した所である。今まで通っていない路を直進する事にした。暫くすると先程の煙草屋の 十字路に至った。直進すれば板津児童公園に至り、左折すれば、板津交差点に至る。同じ 所を何度も通るので、板津の地は狭い事が判った。もう確認すべき地域がないと悟り、板津 交差点に至り、更に湖陵郵便局を経て、國引荘へと戻っていった。時計を見ると五時であっ た。二時間ばかり板津の地をぐるぐる回ってきたことになる。この二時間の散歩で板津地 区の建造物や旧跡は概ね調査が完了した。


板津の地の由来
 確証となる古文書は残されていない。板津の名前が出てきたのは、江戸時代である。板津 の由来は大きく分けて二つ説があるようだ。
 國引荘の話しによると、神西湖の岸に板杭を打ち込んで、土地を広くして来た歴史にちな んで、板津と呼ばれるようになったらしいと言うことである。確かにこの地は長年にわたり 神西湖を埋め立ててきた経緯があるから、この説は最もらしく思える。湖陵町役場の人の話 では、板津はなだらかな津が起源であるという。かって神西湖は今の三倍の面積であったが、 次第になだらかな地域が広がっていった。このような歴史的経緯よりして、板のようになだ らかな津が起源であると言う。
 もう一つが土地の老人のいう「枝津が板津になった」というのもである。神西湖がかって 広かった時代、板津の地は長さ二十二里三十四歩、広さ三里の小高い丘が伸びていたと出雲 風土記にある。小高い丘の部分は枝のように伸びている津と言うことになる。枝の字は板と 極めて類似しており、これも板津の起源の説に加えて良いように思われる。

この板津の地の由来は土地の歴史家、五十殿氏(四三―一五六四又は四三―一五七六)に尋ねれば何か解 るのではと、土地の人は言っている。


出雲の国引き(「山陰地方のむかし話し」より抜粋)
 むかしむかしの、そのまた昔。八束水臣津野命は、出雲の國をしみじみと眺めて、こう言 いました。「この八雲立つ出雲の國は、なんと狭いことだ。神々は、初めからずいぶんと小 さくつくったものだ。よし、わしが大きくしてやろう」そういって新羅の國の方を見ると、 余っている土地が見えました。
 そこで、さっそく新羅の國まででかけていって、余っている土地に、大きな鋤をうちこみ ました。そして、三つよりによじった太い綱を打ちかけて、ちょうど川船でも引くような調 子で「國来、國来」と勇ましいかけ声をかけながら、出雲の北側まで引っぱってくると、さ っそく縫いあわせてしまいました。
 その縫いあわせた所というのが、今の日御崎あたりだそうです。また、その時、この土地 が離れてしまわないようにと、今の三瓶山に、大きな杭を打ちこみ、綱のはしをしっかりと 結びつけましたが、そのとき、綱から落ちた砂が園の長浜になったということです。以下略


神戸水海(神西湖のこと)
 郡家の正西四里五十歩なり。周り三十五里七十四歩あり。裏には則ち、鯔(ボラ)・ 鎭仁(クロダイ)・須受枳(スズキ)・鮒(フナ)・玄蛎(カキ)あり。即ち、水海と大海と の間に山あり。長さ二十二里二百三十四歩、広さ三里あり。此は意美豆努命の國引き生しし時 の綱なり。今俗人、号けて園松山と云う。
以下略      (出雲風土記、神門郡の条)


解説
 「郡家の正西(まにし)四里五十歩なり。周(めぐり)三十五里七十四歩あり」とある。 今の広さにしてみると周囲は約十八・四キロメートル、今の湖の約三倍もの大湖だ。正確な範囲 は分かっていないが、これまでの研究で出雲市の西部から湖陵町、さらには大社町との境を結ぶ ほどの広さで、おどろくべくは斐伊川と神戸川の二大河が注いでいたという。その斐伊川が江戸 時代二度の大洪水で一転して東流し、その後の治水によって安定するまで、常に水害に悩まされたという。


板津村(地名辞典より)
 西浜海岸にあり、西は日本海、東は神西湖、北は差海村に接する。正保國絵図に村名が見える。 元禄十年出雲國郷帳では高十一石余、寛文四年(一六六四)の本田高二石余、新田高四石余。 「雲陽大数録」に板津浦十三石と記す。宝暦四年(一七五四)の神門郡南方万指出帳(比布智神社文書) に東西八町、南北十二町、船七(伝渡四、伝馬三)、塩浜一、塩竃三と記す。宗門改帳(山本家文書) の人口は寛政三年(一七九一)二六一、同九年二九八、天保四年(一八三三)五五一、同九年四七二である。

トップページへ
inserted by FC2 system