曾祖父母のふるさと富加町滝田

板津昌且

板津氏が加賀から移住した第二のふるさとの一つが岐阜県加茂郡富加町滝田です。 此処は作者の曾祖母が鎌太郎を婿に迎えて大板津家から分家した所です。 名古屋から名鉄電車で鵜沼まで行き、そこからJR高山線て美濃太田まで行き、 更に長良川鉄道に乗り換えて、富加駅で下車します。

名古屋からは大変不便な田舎であるが、作者がたびたび訪れる場所です。 何しろ、曾祖父母〜父母の三代が眠っている墓がそこに有るからです。 上の写真は富加駅です。今では無人駅となってしまったが、戦前はJRの 越見南線に所属し、駅員も駐在していました。今から思うと、昔は本当にゆとりのあった いい時代でした。

富加駅から約一キロメートルほど北へ歩き、左折して暫く歩くと、大板津家の門前に出ます。 この家は代々庄屋をやって来た家で、文明十一年(一四七九)に移住してきたことは板津歴史の項で述べました。 今から約二百年前に板津吉兵衛という人が分家しました、二代で絶家してしまいました。 大板津家十四代目の当主政富には男子無く、四人の娘がいました。三人の娘が、それぞれ養子をもらい、長女が本家を継ぎ、二人の娘が分家しました。 三女(曾祖母)が先に絶家した板津吉兵衛の名跡をついで分家したのです。

この政富という人は板津一族の菩提寺である法源寺を建立した人です。元々板津一族は今の場所に 住んで居たのではなく、理由は定かでないが、現在の場所よりちょっと離れた所に住んでいました。 そこには菩提寺である神徳山福源寺と板津一族の氏神である星宮神社がありましたが、移住に伴い菩提寺を新たな場所に建立する必要がありました。 関倉地という町にあった徳雲山竜淵寺とを合祀して、今の法源寺を建立したのです。

法源寺の山門には板津氏の家紋である丸に澤潟紋の瓦が用いられています。過去には板津氏の もう一つの家紋である丸に三つ鱗紋の瓦が存在したといいます。
  いずれにせよ、一農民の出身者が私費をもって、一つの寺を建立するのですから、当時の大板津家 の財力並びに近隣に対する影響力は絶大であったことがうかがい知れます。
 法源寺に通じる長い参道脇には、先祖達の残した、観音様が静かに悠久の時を過ごしています。

この観音様の中に吉兵衛(然山祖法信士)のものも静かにたたずんで居ることが、記録に残っています。
  またこの参道には戦国時代の堂洞合戦の時に焼失した弥勒寺を懐古して板津喜兵衛勝吉が正徳元年に建てた碑が残されています。 この碑はもともと弥勒寺の焼失跡にありましたが、法源寺を建立したときに、法源寺参道に移されたものです。

参道の入り口に板津一族(作者の家を入れて七家で作った)の墓があります。正面は大板津家の墓で、 その左右と奥に分家の墓があります。作者の家の墓は丁度大板津家の墓の真後ろにあります。
  正面右に曾祖父母の墓、真ん中に祖父母の墓、そして左に先祖代々の墓があり、そこに両親が眠っています。 これらの墓の奥に、吉兵衛とその妻及びその孫の墓がひっそりと建っています。
  板津一族の墓の西側に畠がありますが、そこに曾祖父母が住んだと思われる場所があります。 図の5のところが相当し、初代鎌太郎が住んでいたことが、大板津家当主宇平治が明治末期に書いた地図(出展:富加町史)から解ったのです。
  この図から、滝田には当時、板津氏、梅村氏、多治見氏、川崎氏、大野氏らが住んでいたことが解ります。


以上
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