岐阜城とその周辺

昭和17、18年頃だったと思うが、金華山の麓に従兄弟達が住んでいたので、母に連れられ、訪れたことがある。長良川で小さな竿でハヤを釣った覚えがある。この時は昔の岐阜城があったように思う。


岐阜城


岐阜城二の丸


岐阜城の由来


岐阜城初代・二代城主

1.二階堂行政「ゆきまさ」(生没年不詳)
鎌倉時代前期の鎌倉幕府史僚。二階堂氏の祖。父は藤原南家流の行遠。母は熱田宮司秀範の妹という。
行政は源頼朝に早くから仕え、鎌倉幕府の文史として幕政に参画する。頼朝が公文所(後に政所)を開設すると、行政は公文所寄人となり、ついで政所令となる。以後、二階堂氏は代々政所執事として幕府の財政事務を所管することとなる。頼朝が義経・秀衡らの怨霊をなだめるため永福寺の建立を発願すると、建久二年(一一九一)行政はその造営奉行に任じられる。
また行政は、建仁元年(一二〇一)に稲葉山に砦を築き、京都への押さえとする。
行政の一門は、関東から美濃国のほか陸奥・出羽・駿河・伊勢に及び、美作・安芸・伊予・薩摩などにも豪族として繁栄した。

2.佐藤朝光「ともみつ」(生没年不詳)
二階堂行政の女婿子。行政の後を受けて稲葉山城を守る。

3.伊賀光宗「みつむね」(生没年不詳)
佐藤朝光の次男。次郎左衛門と称し、父の後を受けて稲葉山城を守る。その後、式部丞と称し鎌倉幕府の評定衆・引付頭となるが、幕府に疎まれ信濃国に配流される。
兄の左衛門光季は、承久年中関東代官に任じられ、上洛して京都を守護する。

附記:光季は京都にて法王方の軍の急襲を受けて、壮絶な死を遂げる。これを契機に承久の変が起こる。加賀においても同様な事件があり、法王方の軍に急襲されて板津家景が殺害され、その後加賀では幕府軍と法王方の軍とが戦を繰り広げ、幕府軍の勝利となる。

4.稲葉光資「みつすけ」(生没年不詳)
伊賀光宗の弟。三郎左衛門を称する。兄の伊賀宗光が信濃国へ配流された後をうけ稲葉山城を守り、氏名の「伊賀」を居城に因んで「稲葉」と改める。


岐阜城三代・四代城主


展望台からの眺め1


展望台からの眺め2


展望台からの眺め3


展望台からの眺め4


金華山頂上付近からの眺め1


金華山頂上付近からの眺め2


織田信長公以前の居舘(斉藤氏時代)説明


織田信長居舘屋跡説明


岐阜公園噴水


岐阜大仏


岐阜大仏建物正面


岐阜大仏建物裏面


常在寺

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